いゝえ‥‥」
「直子さん、なかなか逃げ口上がうまくなつた」
「あらア、あんな厭味なこと‥‥」
「まア、何でもいゝさ、この儘どつかへ行つてしまひたいナ」
「えゝ‥‥」
「行つてもいゝ?」
「そんな無茶なことツ、駄目! 駄目ですわ、苦しむばかしですものウ‥‥」
小豆色の女の肩に、綿雪が柳の葉のやうに降りかゝつてゐる。男は帽子のまゝもう霜降りの姿で、焦々してゐるかのやうであつた。
「自動車が来てゐるンだけど‥‥」
「えゝ‥‥ぢやア、明日お供しますわ、今晩はもうお帰りンなつて、ねえ、でないと岡田さんもですけれど、お粒さんが大変なンですもの‥‥」
男はハンカチでパタパタと、女の肩の雪を払つてやりながら、いつとき女の眼を視てゐた。
「ぢやアさよなら‥‥」
「さう――さよなら、明日何時に自動車を向けたらいゝの?」
「お店の前ですと、あのウ困りますから、どつか遠くで待つてゝ下さるといゝンですけれど‥‥」
「ぢやア、新橋の駅。僕ンとこの自動車知つてるでせう?」
「えゝ――では夕方四時ごろ‥‥」
女は、急にコンコンと小さいセキをしながら、袂を口にあてた。
「風邪をひくンぢやない、ぢやア、明日きつと‥‥」
女は丁寧に腰を屈めると、小走りにもと来たリラの前へ走つて行つて、子供つぽく、男の方を振り返つて優さしくニツと笑つた。
2 銀座料理店リラの内部、また雀をどりの唄が、あつちこつちの女の唇にばらばらと残りながら、海の底のやうに静もり返つてゐた。椅子に腰をかけてゐるのは、五人の女ばかりで、客は一人もゐなかつた。ひつそり閑として、戸外の雪の気はいが、此の小さい料理店リラの中にまで、泌み透つて来てるかのやうで、女達は、いまさらふつと唄を止めてしまふのも淋し気に、冷々とした顔をしてゐた。たゞこの店で一番古いお粒だけが、南洋産のシダのやうな鉢植の蔭でウイスキーを引つかけながら、苛々と怒鳴つてゐる。
「かう甘く見えたつて、七転び以上なンだよ、一転びの苦労もなめた事がないくせに、一かどの苦労をしよつた気の女が多いンだから、全く呆れけえるだわ、ねえ、勘ちやんさうは思はないかい?」
顔の長いバアテンダーは、桃色の紙風船をふくらましながら、
「冗談云つちやアいけないよ、七転びどころか、今の世の中ア、百転びの方が多いンだぜ」
「馬鹿、何によう云つてるンだい、フゝゝお神さん転ばして風船吹いてゐなよだ
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