むこうから、また声がする。若年寄お退《さが》り! というのだ。
これで、そろそろ頭を上げかけていた御書院番の連中は、いそいでまたもや畳を舐《な》めんばかりに這《は》いつくばる。そこへ、いま言った若年寄であろう。五、六人の大官が、綺羅星《きらぼし》を集《かた》めたように美々しい一団となって通りかかった。加納遠江守はすぐわかる。眼じりに有名な黒字《ほくろ》がある。泣きほくろだと言うので泣き加納の名があるが、本人はこの綽名《あだな》と正反対に始終にこにこ[#「にこにこ」に傍点]している。その泣き加納と何かささやきながら、よろけるようにして往くのが米倉丹後守《よねくらたんごのかみ》である。足が悪いのである。すぐ後から安藤|対馬守《つしまのかみ》が、頭脳のなかで謡曲《うたい》でも復習《さら》えているように、黙々と、しかし朗かな顔付きでやって来る。太田若狭守が大きく手を振って、足早に追いついた。そして低声《こごえ》で何か言うと、対馬守がほほえんでしきりに合点《がってん》合点をしている。ひとり遅れて、平淡路守が超然と歩いて来る。山野に遊んで四方《よも》の景色を賞美していると言ったような、妙に俗塵離《ぞくじんばな》れのした恰好だ。背がすらり[#「すらり」に傍点]と高いので、年賀の礼装がこの人には一層よく似合う。白い顔を真っ直ぐに立てて、一歩ごとに袂《たもと》を叩くように、ぶらり、ぶらりとあるいてくる。誰かを待ち合わせているようにも見える。と、うしろの廊下の角から人影が現れた。下ぶくれの和《なご》やかな顔である。晴ればれと眼を笑わせている。頬をきざむ皺《しわ》に、人間的な、或いは浮世的なと言いたい、人生経験といったようなものが、深く彫り込められて見えるのである。誰にでも笑いかけそうに、そのくせ固く結んでいる口辺には、侵《おか》すことを許さない意志の力が覗いているような、気がする。中肉中|背《ぜい》である。いや、いささか肥《ふと》っているほうかも知れない。横から見るとすこし猫背だ。両手をきちん[#「きちん」に傍点]と袴のまち[#「まち」に傍点]へ納めて、すウッすッと擦《す》り足である。見ようによっては、恐ろしく苦味《にがみ》走って見える横顔に、元日の薄陽《うすび》がちらちら[#「ちらちら」に傍点]と影を踊らせている。八|葉《よう》の剣輪違《けんわちが》いの定紋を置いた裃を着ている。遅
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