うことも、忘れていたわけではないが、前後して出て行った喬之助と近江之介が、何となく気になる空気を残して行った。しかし、相手はどうせあの喬之助である。大したこともあるまいが、どこか人眼につく場処で口論でもされては、新御番詰所一同の失態になるかも知れない。が、これも、考えてみれば杞憂《きゆう》に過ぎない。片方が組与頭の戸部氏である。まさか一時の怒りに任せて、そんな愚《ぐ》をするはずはない。かえって多人数がお廊下などを歩き廻っては面白くないから、安心して、ここで雑談でもしながら退出《ひけ》の時刻を待つとしよう。止められると、皆その気になって、出足《であし》を引っこめて一同詰所にすわった。
大体が、近江之介におべっか[#「おべっか」に傍点]を使うための喬之助いじめである。だから、その張本人の近江之介がいなくなると、自然喬之助のことは忘れて、話題は急速にほかのことへ移って行った。駒場の鳥狩《とりがり》のこと、その時の拍子木役のむずかしかったこと、馬のこと、酒のこと、煙草のこと、刀のこと、女のこと、など、など、などである。ときどき、お終いに来て笑い返して出て行った喬之助のことが、誰かの胸へ帰って来て、ふっと気味の悪い沈黙の種となった。何だか、あの喬之助を見損《みそこな》っていたようにも考えられるのである。悪かったかな――かすかに、そんな気もした。
で、大迫が、また喬之助を会話《はなし》へ持ち出して来て、
「笑いおったな。あいつめ。気《き》が狂《ふ》れたように笑いおった。拙者も、いささかぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、髷を持つ手を離してしもうた。いや、豪胆な笑いじゃったぞ」
「何の、豪胆なことがあるものか。大迫氏は御自身を台に判断して、あの卑怯者を買い被《かぶ》っておらるる」
「そうかな」
「そうとも。たといかの柔弱男子が悲憤慷慨《ひふんこうがい》したところで、畢竟《ひっきよう》人形の泪《なみだ》じゃわい。何ごとが出来るものか」
荒木陽一郎が、請《う》け合うように、こう言い切った時だった。
部屋の横手に、お庭に面して窓がある。
閉《た》て切った障子越しに、寒ざむしい白い陽《ひ》ざしが覗いていた。その障子が、何者かの手によってぱッと戸外《そと》から開けられたかと思うと、そこから、円い大きな物が一つ、すうウッと尾を引いて飛んで来て、どさり一同の座談の真ん中へ落ちた。ころ
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