うね。それからお口よごしには何を……」
「殴るよ。じっさいお前は老成《ませ》ているね。口を利いているのを聞くと一人前だ」
「それでいて仕事は半人前、食うほうは三人前――われながら不思議の至り……」
 市ヶ谷やきもち坂の甲良屋敷へ差しかかろうとする馬場下《ばばした》の清玄寺前、角に腰掛茶屋が出ている。
 無駄口を叩《たた》きながら、そこへはいって来たのが、下谷長者町の筆屋幸兵衛、筆幸という、その息子で幸吉。黒門町の壁辰の娘お妙に恋をして、思いの通らぬところから、甲良屋敷の脇坂山城守に訴人《そにん》をしたが、人ちがいということになって面目玉を踏み潰した生《なま》ッ白《ちろ》い若旦那だ。今日は、十五、六の小僧で減らず口のチャンピオンとでも言うべき定公を供に、もう一度脇坂様へ取り入ろうと、お贈《つか》い物を持って出かけて来たところ。
 泰平つづきで、役人は腐敗しきっている。もっとも疑獄連発《ぎごくれんぱつ》のこの頃のようなことはないが権門賄賂《けんもんわいろ》は公然の秘密だった。長崎奉行は二千両、御目附は千両という相場《そうば》が立った位で、いまこの、筆屋の幸吉が定公に担《かつ》がせて持って来ているものは、一見|膳部《ぜんぶ》のような箱だが、これは膳にして膳に非《あら》ず。なるほど箱の中には高脚《たかあし》つきの膳が入っていて、膳の上に吸物、さしみ、口取り、その他種々の材料をはじめ庖丁|俎板《まないた》まで仕込んである。花月《かげつ》の夜《よ》、雨雪風流《うせつふうりゅう》の窓《まど》にこれをひらいて、たちまち座を賑わそうというのだが、これは膳の上のはなしで、その膳の下には、いつどこで開いてもたちまち座を賑わすに足る、小判の山がうず高く積んであろうという、膳の上よりも膳の下が目的《めあて》ということは、贈るほうも贈られる方も、不言不語《いわずかたらず》、ズンと飲み込んでいるのだから、誠に重宝《ちょうほう》な品物で……。
 幸吉と定公。
 そいつを萌黄《もえぎ》の風呂敷包にしてここまで持って来て、もう脇坂様のおやしきは眼の前だからと、こうして馬場下の茶店に腰を下ろし、茶を飲む。菓子を摘《つま》む。定公なんか、
「茶腹《ちゃばら》も一とき、アアもうダブダブになっちゃった」
 というさわぎだ。
 あらたに油渡世をもはじめたについては、伊豆伍を蹴落して、御書院番頭脇坂山城守さまのお
前へ 次へ
全154ページ中88ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング