もうというようになる。いわば小姑根生《こじゅうとこんじょう》だが、当人はそうと気づいてやっているわけではない。自分の面目《めんぼく》にかかわると考えて、ひいては、役目のおもて天下国家の一大事とも観《かん》じているのだ。
 早い話が、この戸部近江之介を筆頭《ひっとう》に御書院番の一同である。もっとも、これには色いろ仔細《わけ》のあることだが、いったい普段から総がかりで新役の神尾喬之助に辛《つら》く当って悦《よろこ》んでいる。その喬之助が、今日出仕して来て詰番一統に改まって年始の礼を述べないといって、組与頭《くみよがしら》戸部近江之介が最先に文句を言い出した。が、喬之助は、詰所へ這入《はい》ると同時に立派に挨拶をしたのである。その時はがやがや[#「がやがや」に傍点]話し込んで知らん顔をしていて、あとになって、はじめて喬之助の存在に気が付いたようにこんなことを言い出す。要するに難癖《なんくせ》だから、喬之助は、おとなしく平伏したまま無言でいた。で、いくらこっちばかり一人で怒っても、相手が黙り込んでいるのでは、喧嘩にならない。そこで、こうまで言ったら怒るだろう、怒ったら面白いぞ、という肚で、近江之介は呶鳴《どな》ったのである。
「卑怯者ッ――!」
 そして、呶鳴《どな》ってしまってから、近江之介は、自分でもほんとに怒れて来た。

      四

 いま、老体の大目附も、咳払いと一しょに下城してしまう。
 あとは、ちょっと森閑《しんかん》としている。
 御書院番衆はやれやれ[#「やれやれ」に傍点]と寛《くつろ》ぎ出して、急にそこここに話声も起り、中断されていた喬之助いじめをまたはじめようとそっちのほうを見ると、もう皆頭を上げているのに、喬之助だけは、まだ平蜘蛛《ひらぐも》のように畳に手をついている。
 袖ひき、眼配《めくば》せして、一同は喬之助を取り囲んだ。
 箭作《やづくり》彦十郎は変にねっとり[#「ねっとり」に傍点]した口調である。
「神尾氏、居眠ってござるかの? あははは、その初夢に拙者もあやかりたいほどじゃが、ここは殿中、さまで疲労しておらるるなら、悪いことは言わぬ。下城《さが》って御休息なされい」
「疲労?」長岡頼母が頓狂な声をあげる。「疲労はよかったな。園絵《そのえ》殿と番《つがい》の蝶では、如何な神尾氏も疲労されるであろうよ」
 下卑《げび》た言い草である。二
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