大新地、小新地――ふか川。
あそびの世界。
価い、昼夜十二匁ずつの五つ切り、あるいは昼二歩二朱、夜一分、ひと切り二朱など、さまざま。
栄喜横町、仲町の尾花屋、大新地の大漢楼《だいかんろう》、五明楼《ごめいろう》、百歩楼――屋根船を呼ぶ舟宿の声。
この二枚証文の辰巳七個所の色まちのなかで。
矢倉下――恋慕流し宗七とお多喜の住いは、ここの路地奥にあるのだ。
格子から土間を一跨ぎに、上ったところが六畳ひと間っきりの家で、表看板商売物の三味線が懸かっているだけ、身を秘しての捕物稼業だから、お役風を吹かせる朱総《しゅぶさ》の十手やとり繩などは、壁にぶら下がっていない。
其室《そこ》の、うす赤く陽に染んだ畳に。
惨めに狂っている大次郎の姉、小信を中に挾んで、お山帰りの宗七とお多喜、じっと顔を見合っている。
出しぬけの良人の言葉に、お多喜は愕きの眉を上げて、
「まあ! お前さんはこの女《ひと》を知ってるのかえ。」
それには答えず、小信の横へちょこなんと膝を揃えて坐った宗七は、
「小信様! お見かけするところ、あなたあ変《ひょん》な御様子だがこりゃあまあいったいどうなすったというので――あの出羽、いや、祖父江出羽さまのお眼に留まって、田万里から伴れ出されてから、今までどこにどうしてお暮らしなされた――。」
と彼は、真剣の色を面《おもて》にあらわして、小信の顔をさし覗くのだった――。
相手は、うつ向いて袂の端を弄んでいるきり、答えない。
お多喜は先刻《さっき》、八幡のお社の縁の下で、この小信を発見《みつ》けて家へ伴れ帰った顛末を話した後、
「気が違っておいでなんだもの。何を訊いても、分別《ふんべつ》のつくわけはないよ。それにしてもお前さんは、あたしの識らないことばかり言い出すんだねえ。祖父江出羽守だの、田万里だのって――この女は小信さんって名で、その伴何とかさんの姉さんだって。」
お多喜が不審に思うのは当然で、有森利七の宗七は、じぶんの出身については、女房のお多喜にも何ひとつ明かしてないのである。
夫婦《ふたり》の会話《やりとり》をぼんやり聞いている小信は、まるで薄桃色の霞のなかに生きているような気がするだけで。
何の記憶も、意識もない。
だが、いま――。
田万里、祖父江出羽守、伴大次郎――という名を耳にしたかの女のこころに、朧気《おぼろげ》ながら
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