、お山へかかっての三人の眼じるしにと、これも申し合わせのひとつで、はははははは――少し行ったら、着ものを畳んで、裸体《はだか》で登山《のぼ》ります。鍛練《たんれん》の機会ですから。」
「そうまで言うなら――。」
 と、階段の中途に立ち停まった法外先生、ふと思いついて、
「千浪、彼刀《あれ》を持ってまいれ。兼安《かねやす》を――大次ちょっと待て。」
 千浪は座敷へ引っ返して、床の間の刀架けから、だいぶ佩《は》き古した朱鞘《しゅざや》ごしらえの父の大刀を持って来て、はしご段のなかほどに待っていた法外に渡すと、老人は其刀《それ》を、肩越しに、二、三段下の大次郎へ差し出して、
「さ、守刀だ。これを帯して行け。その、お前の刀は残して、これと脇差と――。」
 ななめに振り返って、受け取った大次郎。
「これは千万! ありがたく拝借いたします。」
 自分の佩刀《はいとう》と差しかえて、残して行く刀は、千浪の手へ。
 千浪はそれを、人形のように両袖に抱き締めて、父娘《おやこ》は土間の上り框《がまち》まで、大次郎を送って出る。
 大次郎の腰には、兼安の朱鞘と、かれの蝋ざやの小刀と、異様な一対をなして。
「くれぐれも言うておくが、大次、けっしてその兼安を抜いてはならぬぞ。抜けば血を見る。や、こりゃ、わしとしたことが、門出に不吉な! 千浪、許せ。ははは、気に留めるな。じゃが、大次郎、刃元に浮かぶ一線の乱れ焼刃、刀面に、女の髪の毛と見えるものが、ハッキリ纏《まつ》わりついておる。人呼んで女髪兼安《にょはつかねやす》、弓削家代々の名刀じゃ。しかし、必ずともに、その女髪を見んとて、鯉口《こいぐち》三寸、押し拡げるでないぞ。抜かぬ剣、斬らぬ腕、そこが法外流の要諦《ようてい》じゃ。女髪を覗いて、伝えらるるがごとく、邪心を発し、渦乱を捲き起してはならぬ、よいか。」
「女髪兼安の由来、かねがね承わって存じております。抜きませぬ。御免!」
「おう、行くか。」
「お気をつけなされて。」
 阿波の住人、右近三郎兼安|鍛《きた》えるところの女髪剣。鮫は朝鮮の一の切れ、目貫は金で断の一字、銘を天福輪《てんぷくりん》と切った稀代《きだい》の剛刀――ぐいと、背後《うしろ》ざまに落とし差した下谷の小鬼、伴大次郎、黒七子の裾を端折ると一拍子、ひょいと切戸を潜って戸外《そと》へ出た。
 まっ黒な夜ぞらの下、銀の矢と降る雨、
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