こつ[#「こつ」に傍点]をよく心得ていて、いつも藤吉の口が重くなると触らぬ神に崇りなしと傍へも寄らないように、そっとして置くのだった。そして、そういう場合、藤吉は必ず誰にも知らせずに、大きな事件を手がけているので、しじゅう何かひそかに考えごとをしているふうだった。勘次も彦兵衛も、長年の経験からそれを承知していて、いざ親分の思案がまとまって話があるまでは、何も訊かないことにしていた。
「彦、来い。寄席《よせ》でも覗くべえ。」
 ただこう言って、彦兵衛ひとりを伴に雨の中を、ぶらりと、八丁堀の合点長屋を出て来た釘抜藤吉だった。もちろん木戸御免である。親分の顔にあわてた男衆が、人を分けていい席へ案内しようとするのに、ここで結構と頤をしゃくって、さっさとその柱の根へ胡坐《あぐら》をかいたのだった。
 それきり眼を閉じて、高座へはすこしの注意も払っていない様子だった。どうせ例の気まぐれだろうが、それにしても、何のためにわざわざ傘をさして寄席へでかけて来たのか、さっぱりわからないと彦兵衛は思った。
 気のせいか、今夜は別して、いまにも何か変ったことが起りそうに、藤吉親分が緊張して見えるのだった。ふだん赭《あか》黒い顔が蒼く締まって死人のように、澄んで、沈んでいた。白髪まじりの細い髻《もとどり》を載せた、横へ広い大きな頭部を振って、黄色い、骨だらけの手で、じゃりじゃり音をさせて角張った顔の無精髯を撫で廻している。金壺眼《かなつぼまなこ》、行儀の悪い鼻、釘抜のようにがっしり飛び出た頬骨、無愛想にへの字を作っている口、今に始まったことではないが、どう見てもあんまり人好きのする容貌ではなかった。
「日の本は、岩戸かぐらの昔より、女ならでは夜の明けぬ国。」高座から、円枝の声が流れて来ている。「お色気のみなもとはてえと、御婦人だそうでげして――。」
 藤吉は、眼をひらいた。眇《すがめ》を光らせて、周囲《まわり》の人々を見た。苦笑とも欠伸《あくび》ともつかず、口をあけた。煙草で染まった大きな乱杭歯《らんぐいば》が見える。
 思い切ったように、とむらい彦兵衛が、
「親分、お眠そうじゃあごわせんか。帰りやしょうか。」
「なあに――。」
「円枝は、若えから無理もねえが、小《こ》うるせえ話しぶりでごぜえますね。」
「そうかの。」
 円枝が引っ込むと、一渡り鳴物がざわめいて、評判の五人力、越後上りの大石
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