燈心の音、与惣次は首を廻《めぐ》らした。身の自由も今は幾らか返ったらしい。が、起き上ることはできなかった。枕から見渡す畳の上、羽虫の影が点々としている下に、倒屏風《さかさびょうぶ》が立ててあるのが、第一に与惣次の眼に入った。寝ている敷物はいつしか荒筵《あらむしろ》に変っている。瞳を凝らしてなおも窺えば、枕に近い小机に樒《しきみ》が立ち、香を焚き、傍には守刀《まもりがたな》さえ置いてあり、すこし離れて、これは真新しい早桶、紙で作った六|道銭形《どうせんがた》まで揃っている工合い。
「こりゃあひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると知らねえ中に俺あ死んだのかな。」
 与惣次は思った。「それにしてもいやに手廻しが早えこったが――。」
 唐紙が開いて女がはいって来た。与惣次を見て驚いている。手を上げて何かの合図。続いて主人が現れた。湯呑を持っている。そしていきなり、馬乗りに股がったかと思うと、手早く煎薬のような物を与惣次の口へ注ぎ込んだ。
 氷である。
 氷の山、氷の原、氷の谷、空々漠々たる氷の野を、与惣次は目的《めあ》てなく漂泊《さすら》い出した。時として多勢の人声がした。荒々しい物音もした。簀巻《すま》きのように転がされている感じがした。穴へはいるような感じもした。ただそれだけだった。
 森である。林である。緑である。
 氷が解けるとたちまち鬱蒼たる樹木だ。冬から真夏へ飛んだ気持ち、与惣次は草を分けて進んだ。木の間を縫って歩いた。行っても行っても一色のみどり、尽きずの森、果てしない草原、与惣次は悲しくなった。泣きながら駈け出した。子供のように涙が頬を伝わった。拭いても拭いても留途なく流れた。溜って溢れて淀んで、そこに一筋の川となった。泪《なみだ》の河ではある。
 満々たる大河だ。
 向岸に茅葺《かやぶき》の家が立っている。よく見ると小田原在の生家だ。三年前に死んだ白髪《しらが》の母が立っている。小手を翳《かざ》して招いている。弟もいる。妹もいる。幼馴染みもいる。みんなで与惣次を呼んでいる。
 与惣次は答えようとした。声が出なかった。自分と自分が哀れになって、彼は根限り哭《な》き喚《わめ》いた。後からあとからと大粒な涙がこみ上げて来た。それが河へ落ちた。水量《みずかさ》が増した。浪となってひたひた[#「ひたひた」に傍点]と与惣次の足を洗った。思いきって与惣次は跳び込んだ。
 
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