釘抜藤吉捕物覚書
三つの足跡
林不忘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)祇園《ぎおん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)両三日|行方不識《ゆくえしれず》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+伊」、第4水準2−3−85]
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一
紫に明ける大江戸の夏。
七月十四日のことだった。神田明神は祇園《ぎおん》三社、その牛頭《ごず》天王祭のお神輿《みこし》が、今日は南伝馬町の旅所から還御になろうという日の朝まだき、秋元但馬守《あきもとたじまのかみ》の下屋敷で徹宵酒肴《てっしょうしゅこう》の馳走に預かった合点長屋の釘抜藤吉は、乾児の勘弁勘次を供につれて本多肥後殿の武者塀に沿い、これから八丁堀まではほんの一股ぎと今しも箱崎橋の袂へさしかかったところ。
「のう、勘、かれこれ半かの。」
「あいさ、そんなもんでがしょう。」
御門を出たのは暗いうちだったが、霽《は》れて間もない夜中の雨の名残りを受けて、新大橋の空からようやく東が白みかけたものの、起きている家はおろか未だ人っ子一人影を見せない。冷々とした朝風に思わず酔覚めの首を縮めて、紺結城《こんゆうき》の襟をかき合せながら藤吉は押黙って泥濘《ぬかるみ》の道を拾った。
「大分降りやした――気違え雨――四つ半から八つ時まで――どっ[#「どっ」に傍点]と落ちて――思い直《なお》したように止みやがった。へん、お蔭で泥路《しるこ》だ――勘弁ならねえ。」
勘弁勘次はこんなことを呟いて一生懸命水溜りを飛び越えた。藤吉は何か考えていた。
南茅場町の金山寺味噌問屋八州屋の女隠居が両三日|行方不識《ゆくえしれず》になっていること、これがこのごろ藤吉の頭痛の種だった。八州屋では親戚《しんせき》知人《しるべ》は元より商売筋へまで八方へ手分けして探したが杳《よう》として消息の知れないところから、合点長屋の釘抜親分へ探索方を持ち込んだのだったが、ここに藤吉として面白くないことは、桜馬場《さくらのばば》の目明し駒蔵の手先味噌松というのが金山寺味噌の担売《かつぎう》りをして平常八州屋へ出入りしているという因縁で、始めからこの事件《さわぎ》へ駒蔵が首を突っ込んでいることだった。しかも、事毎に藤吉と張り合って、初手から藤吉が死亡《ない》ものと白眼《にら》んでいる女隠居の行衛を、駒蔵はあくまでも生きていると定めてかかっているらしかった。とはいうものの、藤吉とてもなにもお定――というのがその老婆の名だが――の死を主張するにたる確証《あかし》を握っているというわけでもなかった。ただそんな気がするだけだった。それが、藤吉にとっていっそうもどかしかった。この上は地を掘り返してもお定の屍骸《しげえ》を発見《めっ》けて、それを駒蔵の面へ叩きつけてやらなけりゃあ腹の虫が納まらねえ、と頭の中で考えながら箱崎橋の真中に仁王立ちに突っ立った藤吉は、流れの上下《かみしも》へ眼を配った。
昨夜の大雨に水量《みずかさ》を増した掘割が、明けやらぬ空を映してどんより淀《よど》んでいる。両側は崩れ放題の亀甲石垣《きっこういしがき》、さきは湊橋《みなとばし》でその下が法界橋《ほうかいばし》、上流《かみ》へ上って鎧《よろい》の渡し、藤吉は眇眼《すがめ》を凝らしてこの方角を眺めていたが、ふと[#「ふと」に傍点]小網町の河岸縁に真黒な荷足《にたり》が二、三艘集まっているのを見ると、引寄せられるように歩を進めてぴたり[#「ぴたり」に傍点]と橋の欄干へ倚った。
「なんだ、ありゃあ?」
勘次も凝視《みつ》めた。剥げちょろの、黒塗りの小舟のように見える。なかの一艘はことに黒い。
「勘、この川底《そこ》あ浚ったろうのう。」
「へえ。」と勘次は弥造《やぞう》で口を隠したまま、「八州屋のこってげすけえ?」
「俺が訊いてるんだ。」
「へえ、上から下まで浚えやした、彦の野郎が采配《せえへえ》振って。」
「彦の仕事ならぬかりゃあねえはず。勘、石を抛れ。舟までとどくか。」
橋際へ引き返して拾って来た小石を、勘次は力一杯に投げた。橋と舟との中間に小さな水煙りが立つと見る、その音に驚いてか、たちまち舟から舞い上るおびただしい烏の群、鳴き交す声は※[#「口+伊」、第4水準2−3−85]唖《いあ》として甍《いらか》に響き空低く一面に胡麻を散らしたよう――後には小舟が白く揺れているばかり。
「烏か。」
「あい。」
「小魚でも集りやがったか。」
「あい。」
「勘、冷えるのう。行くべえ。」
歩き出した二人の鼻先に、留守番の筈の葬式《とむらい》彦兵衛が小僧を一人連れて、いつの間にか煙のように立っていた。
「お、お前
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