喧嘩じゃあねえのか」
「半鐘《はんしょう》が鳴らねえじゃねえか。火事はどこだ」
「いや、火事でもない。喧嘩でもない」
長屋の入口につっ立った石金は路地を埋める人々へ向かって、大声に、
「オウ、おめえら、このごろすこしでも、この長屋が住みよくなり、また、困ったことがありゃア、持ち込んで行けると思って安心していられるのは、いったいどなたのおかげだか、わかってるだろうな」
路地いっぱいの長屋の連中、ガヤガヤして、
「泰軒先生だ」
と、いう鳶由《とびよし》の声についで、
「そのとおり! 泰軒先生は、おれたちの恩人だ」
「泰軒先生あっての、トンガリ長屋だ」
みな大声にわめく。
「そこでだ――」
群衆へ向かって話しかける石金の足もとへ、心きいた誰かが、横合いの芥箱《ごみばこ》を引きずり出してきて、
「サア、これへ乗っておやりなせえ、声がよく通るだろう」
石金はその芥箱のうえに立ちあがって、
「オイ、その大恩人の泰軒先生が、いま眼の色を変えて、向島のほうへすっとんでいらしった」
と、演説をはじめた。
期せずして、深夜の長屋会議の光景を呈《てい》している。
「この間まで、作爺さんの隣家《となり》に住んで、おれ達の仲間だったチョビ安が、先生を迎えに来たのだ。なにやらただならぬ出来事らしいことは、チラと見た先生の顔つきで、おらア察したんだ。先生と安の話から、渋江村《しぶえむら》の司馬寮《しばりょう》の焼け跡というのを小耳にはさんだが、そこに何ごとかあって、先生はとんでいったものとみえる。おめえらも、トンガリ長屋と江戸にきこえた連中なら、よもや先生を見殺しにゃアしめえナ」
九
真夜中の住民大会。
塵埃箱《ごみばこ》の上に立ちあがった委員長石金さんの舌端《ぜったん》、まさに火を発して、
「おれたちがこうしていられるのも、泰軒先生のおかげだと思やあ、これから押しだしていって、先生に加勢をするのに、誰一人異存のある者はあるめえ」
ワーッとわいた群衆の叫びのなかに、奇声で有名なガラッ熊のたんか[#「たんか」に傍点]がひびいて、「ヤイ、石金のもうろく親爺《おやじ》め、オタンチンのげじげじ野郎め、わらじの裏みてえなつらアしやがって、きいたふうのことをぬかすねえ」
イヤどうも、こういう、字引にもない言葉を連発する段になると、ガラッ熊、得意の壇場《だんじょう》だ
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