、これから朝へ向かうのだから気が強い。しっとり露を含んだ地面に、下駄の歯を鳴らして、お露はいつしか、白い素足も乱れがちの小走りになっていた。
 目の前の闇よりも、彼女の心の暁暗《ぎょうあん》。
 それというのが……。
 父が三|方子川《ぽうしがわ》から救いあげてきた柳生源三郎、わが家の奥座敷に病《やまい》を養い、このお露が、朝夕ねんごろに看病《みとり》をするうちに、見る人が思わずおどろきの声を発するほどの、すごいような美男源三郎ですから、お露はいつからともなく、三方子川の川波よりもさわがしい胸を、源三郎に対していだくことになったので。
 由緒《ゆいしょ》のある人――もとより、はじめからそうにらんではいた。言《げん》を左右にして身分を明かさないところがなおいっそう、そう思われたのだが。
 しかし、知らなかった……知らなかった!
 あれが、本郷の有名な道場のお婿さんで、あんなきれいな――あんなきれいな奥様があろうとは!
「たしか本郷妻恋坂、司馬道場とやらの……」
 さっき、つぎの間のふすまのかげで、そっと立ち聞いたところでは、ボンヤリとだが、なんでもそういう話。
「でも、ほんとうにもう奥様なのかどうか――どうも二人の話では、ハッキリしないけれど、お互いに思い思われた同士のことは、あの模様でもよくわかる。それに、何やらあのお侍さんは、お婿入り先の道場とのあいだに事情があって、どうやら死んだことにでもなっているようす」
 両の袖をしっかり胸におさえてお露は足を早めながら、心の闇から外の暗《やみ》へ、苦しいひとり言《ごと》を吐《は》きつづける。
「とてもいわくがありそうだわ。ひとつ、その妻恋坂の道場とかへ知らせてやったら、どういうことになるかしらん――」
 深いことは知らないお露、ただもう嫉妬の焔に眼がくらんで……きっとあのお侍のいどころが知れれば、その道場から人が来て、あのお嬢さんとの仲を引きさくに相違ない。そうして、あの美しいお武家様が一人になったら、また自分へ、色よい言葉をかけてくださるかもしれぬ……。
 お露の頭には、このこと以外何もありません。こうして彼女が源三郎の所在《ありか》を道場へ通じることが、どう事件を浪《なみ》だたせて、自分は無意識のうちに、どんな運命の一役を買っているのか、そんなことを思うひまは、お露にはないのだった。
 ころがるように急ぐ道に、だんだん
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