ようにだんだん早足になって、これじゃアかけ出さなくちゃア追っつかない……。
 と、なったとき、来ました。一風宗匠の部屋の前へ。
「宗匠、どうじゃな」
 対馬守は、どなるように言いながら、室内《なか》へはいった。
「老体じゃ、この長旅に弱らねばよいがと、案じているがの」
 小さな置物が動くように、一風宗匠はそろそろと、敷物をすべりおりました。殿のうしろから厚い褥《しとね》を二つ折りに、折り目をむこうへむけて捧げてきたお子供小姓が、急いで正面床柱の前へ、そのおしとねを設ける。
 それを対馬守、爪《つま》さきでなおしながら、あっちへ行っておれ!……と、ついて来た者へ眼くばせです。
 一同が中腰のままさがってゆくのを待って、対馬守は一風のほうへ向きなおった。
 柳生藩の名物、お茶師一風――百十何歳だか、それとももう百二十歳以上になるのか、自分でも数えきれなくなって、宗匠の年は誰にもわからない。八十、九十のお爺さんを、お孫さん扱いしようというのだから、すごいもので。柳生藩の生きた藩史、今なら知事の盃などいくら持っているかしれない。
 人間もこう枯れ木のようになると男女の性別など超越して、なんとなく物体のような感じ……油紙をもんだような顔をほころばせて、小さなかあいい眼で対馬守を見あげている。
 舌が動かないのです。口がきけない。それでも、先ごろまでは耳はまだ達者で、こっちの言うことだけは通じたのですが、今ではもう耳もだめになったらしく、何を言ってもニコニコしているばかりです。
 眼だけだ、残っているのは。
 対馬守は、静かに硯箱を引きよせ、巻紙をひろげて、サラサラと一筆したためました。
[#ここから2字下げ]
「宗匠に借問《しゃくもん》す。こけ猿と称する偽物、江戸に数多く現われおる由、ほんものを見わくる目印、これなきものにや」
[#ここで字下げ終わり]
 すり寄って、対馬守の手もとをのぞいていた一風宗匠は、コックリとうなずいて、両手を差し出した。
 その筆と紙をこっちへ……というこころ。

       三

 やっとのことで一風の左手に、巻紙を握らせた対馬守は、その、木の根のような右手へ、墨をたっぷり含ませた筆を持たせると。
 こまかくふるえる手で、宗匠の筆が左のような文字を、したためはじめた。
 燭台を手もとに引き寄せて、対馬守は横あいから、異様に燃える眼でその筆先をみつ
前へ 次へ
全215ページ中92ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング