た。
あらゆる世の約束を断ち切り、男と男のあいだの問題を解決するには左膳の手に利刃濡れ燕がある。だがこの恋の迷い、おのが心のきずなだけは――。
このひとに宛てて、あの恥ずかしい、まわらぬ筆の恋文を、書いたこともあったっけ。
今その当の萩乃は、こうして自分の足もとに、おそれおののいている。
手をのばせば、すべてじぶんのものに……。
虹のような、熱い長い息とともに、左膳はひとこと。
「泣きなさんな。なア、おめえさん、源三郎を思っていなさるだろう。その恋しい源三に、会わしてやろうじゃアねえか。おいらが手引きを……」
「え?」
心《こころ》の暁闇《ぎょうあん》
一
「え?」
と、涙に濡れた顔を上げた萩乃、左膳は、その夜眼にも白い顔から、苦しそうに眼をそらして、
「何もおどろくことはねえ。まさかおめえさんまで、あの丹波などといっしょになって、源三郎はもう死んだものと思っていたわけじゃアあるめえが――なア、江戸じゅうの人間が、みんな源三郎をなきものときめてしまっても、萩乃さん、おめえだけは、どこかに生きていると信じていたことだろう」
萩乃は、もうとびたつ思い、すがりつかんばかりに、
「あの、それでは、アノ、源三郎様は御無事で……まあ! シテ、どちらに?」
その満面にあふれる喜色は、左膳の一眼に、そのまま、針のようなつらさと映る。
微苦笑というのは、昔からあったのです。左膳は今それをもらして、
「ウフン、おめえを源三郎にあわせてえと思って、おれアこっそり道場へまぎれこんでいたんだ。源三郎もおめえさんのことを――」
「え? では、あのお方も、このわたくしのことを?」
「マアさ、あいつもおめえのことを、おもっているだろうと思うんだ。これアおいらの推量だが――何しろ、口をきかねえ野郎だから、あの伊賀の暴れん坊の胸のうちだけは、誰にもわからねえ」
「ハイ……」
「サア、お起ちなせえ。すこし遠いが、おいらが案内役だ。こう来なせえよ」
バタバタと裾の土をはらって、立ちあがった萩乃、左膳にしたがってその空地を出ようとすると!
「うぬ、あの化けもの。侍、いずくへまいった」
「ソレ、とりにがしてはならぬぞ」
「ナニ、拙者が見つけて、一刀両断に――」
提灯の灯といっしょに、司馬道場の若侍の声々が、妻恋坂をすっとんでゆく。大丈夫もうそこらにいないと見き
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