に旅に出たつもりなのだが……。
 いくら振りかえっても、早駕籠はおろか、急使らしいもののかげも見えない。
 ハテナ?
 と与の公、小首をかしげたとたんに、六郷の宿で、この、さきへ行く壺の姿を見つけたというわけなんだ。
 儀作の足も早いが、与吉の韋駄天は有名なものです。
 今まで毎々《まいまい》ヤバイからだになって、一晩のうちに何十里と、江戸を離れてしまわなければならない必要にせまられるから、いやでも応でも、早足は渡世道具のひとつ。
 で……やっと追いついたのが、この神奈川の腰かけ茶屋。
「おやすみなさいやアせ」
「何を言やアがる。やすむなといったって、おいらアこの家に用があるんだ。今ここへ、茶壺がへえったろう」
 オットットット! 口をおさえた与吉、見ると、土間をつっきった奥の腰かけに、その茶壺のつつみをそばに引きつけた若党が、渋茶か何かで咽喉をうるおしているから、イヤ、与の公、ことごとくよろこんじまって、
「これは、どうも。よい風が吹きますなあ。そのお腰かけの端のほうを、あっしにも拝借させていただきやしょう」
 口のうまいやつで、そんなことを言いながら、
「あれが安房《あわ》上総《かずさ》の山々、イヤ、絵にかいたような景色とは、このことでしょうナ。海てエものは、いつ見ても気持のいいもので」
 一人でしゃべりちらして、海にみとれるふう……かたわらにある儀作の飲みかけの茶碗をとって、口に持ってゆこうとする。儀作がおどろいて、
「ああもしもし、それは私の茶碗だが――」
「オヤ! そうでしたね。イヤ、これはとんだ粗忽《そこつ》を。だがね、あなた様のお飲みかけなら、あっしは、ちっともきたないとは思いません。イエ、お流れをちょうだいいたしたいくらいのもので」
「何をつまらんことを言いなさる。ソレ、お前さんの茶碗は、ここにあるよ」

       二

「なるほど、あらそわれねえものだ。あっしの茶碗は、ちゃんとここにあらアヘヘヘヘ」
 なんかと与の公、何があらそわれねえものなのか……しきりに感心している。
 ガブリとひとつ茶を飲んで、何やかや一人で弁じだした。
 口前《くちまえ》ひとつで人にとりいることは、天才といっていいほどの鼓の与吉。
 武家奉公で世間もせまく、年も若い儀作は、これが機会《しお》となって、うまうままるめこまれたと見える。
「旅は道づれ、世は情けてえことがあり
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