夜妻もあったであろう……。
その足留稲荷のとんだ巧徳《くどく》ででもあろうか。
伊賀の暴れン坊、柳生源三郎の婿入り道中は、いまだ八ツ山下の本陣、鶴岡市郎右衛門方《つるおかいちろうえもんかた》に引っかかっているので。
こけ猿の茶壺は、今もって行方知れず。植木屋に化けてひとり本郷の道場へ潜入して行った主君、源三郎の帰るまでに、なんとかして壺を見つけ出そうと、安積玄心斎が躍起となって采配を振り、毎日、早朝から深夜まで、入り代わり立ちかわり、隊をつくってこの品川から、江戸の町じゅうへ散らばって、さがし歩いて来たのだが――。
一度は、佐竹右京太夫《さたけうきょうだゆう》の横町で、あのつづみの与吉に出あったものの、みごとに抜けられてしまって……。
来る日も、くる日も、飽きずに照りつける江戸の夏だ。
若き殿、源三郎の腕は、みんな日本一と信じているから、ひとりで先方へ行っていても、だれも心配なんかしない。何しろ、血の気の多い若侍が、何十人となく、毎日毎晩、宿屋にゴロゴロしているんだから、いつまでたってもいっこう壺の埓《らち》があかないとなると、そろそろ退屈してきて、脛《すね》押し、腕相撲のうちはまだいいが、
「おいっ! まいれっ! ここで一丁稽古をつけてやろう」
「何をっ! こちらで申すことだ。さァ、遠慮せずと打ちこんでこいっ!」
「やあ、こやつ、遠慮せずに、とは、いつのまに若先生の口調を覚えた」
なんかと、てんでに荷物から木剣を取り出し、大広間での剣術のけいこをされちゃア宿屋がたまらない。
「足どめ稲荷が、妙なところへきいたようで」
「どうも、弱りましたな。この分でゆくと、もう一つ、足留稲荷の向うを張って、早|発《だ》ち稲荷てえのをまつって、せいぜい油揚げをお供えしなくっちゃアなりますめえぜ」
本陣の帳場格子のなかで、番頭たちが、こんなことをいいあっている。
品川のお茶屋は、どこへ行っても伊賀訛りでいっぱいです。そいつが揃って酔っぱらって、大道で光る刀《やつ》を抜いたりするから、陽が落ちて暗くなると、鶴岡の前はバッタリ人通りがとだえる。
こういう状態のところへ、植木屋姿の源三郎が、ひょっこり帰ってきました。
二
立ち帰ってきた源三郎は、てっきり司馬先生はおなくなりになったに相違ない……と肚をきめて、二、三日考えこんだ末、
「おいっ、ゲ、ゲ、玄心斎、すぐしたくをせい。これから即刻、本郷へ乗り込むのだ」
と下知をくだした。
帰って来たかと思うと、たちまち出発――いつもながら、端倪《たんげい》すべからざる伊賀の暴れん坊の行動に、安積玄心斎をはじめ一同はあっけにとられて、
「しかし、若、本郷のほうの動静は、いかがでござりました」
「サ、さようなことは、予だけが心得ておればよい」
不機嫌に吐き出した源三郎のこころの中には。
三つも、四つもの疑問があるので。
司馬道場で、じぶんが柳生源三郎ということを知っているのは、あの、見破ったつづみの与吉と、お蓮派の領袖峰丹波だけであろうか?
あの可憐な萩乃も、あばずれのお蓮様も、もう知っているのではなかろうか……?
だが、これは源三郎の思いすごしで、あのふしぎな美男の植木屋が問題の婿源三郎ということは、丹波が必死に押し隠して、だれにも知らせてないのです。
お蓮さまや萩乃にはむろんのこと、門弟一同にも、なにも言わずにある。
丹波が皆に話してあるところでは……。
変てこな白衣《びゃくえ》の侍が、左手に剣をふるって、やにわに斬りこんできたので、健気にもあの植木屋が、気を失った自分の刀を取って防いでくれた。ところが、剣光と血に逆上したとみえて、その感心な植木屋が、あとでは左腕の怪剣士といっしょになって、道場の連中と渡りあったとだけ……そうおもて向き披露してあるのだ。
だから、あの、星が流れて、司馬老先生が永遠に瞑目《めいもく》した夜、かわいそうな植木屋がひとり、乱心して屋敷を逐電した……ということになっているので。
が、しかし。
あれが音に聞く柳生源三郎か、あのものすごい腕前!――と自分だけは知っている峰丹波の怖れと、苦しみは、絶大なものであった。
道場を横領するには、お蓮様と組んで、あれを向うにまわさねばならぬ。つぎは、どうやってあらわれてくるであろうかと、丹波、やすきこころもない。
それから、源三郎のもう一つの疑問は、あの枯れ松のような片腕のつかい手は、そもそも何ものであろうか?……ということ。
自分が一|目《もく》も二目もおかねばならぬ達人が、この世に存在するということを、源三郎、はじめて知ったのです。
峰丹波には、この剣腕を充分に見せて、おどかすだけおどかしてある。もう、正々堂々と乗り込むに限る! と源三郎、
「供ッ!」
と叫んで、本陣の
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