とそれを切り抜けると、その間にチョビ安は、もうずっと遠くへ逃げのびている。逃げるほうもよく逃げたが、追うほうもよく追った。あれからまっすぐにお蔵前へ出たチョビ安は、浅草のほうへいちもくさんに走って、まもなく行きついたのが吾妻橋《あづまばし》のたもと。
 ふっとチョビ安の姿が、掻き消えた。ハテナ!――と与の公、橋の下をのぞくと、狭《せま》い河原《かわら》、橋|杭《くい》のあいだに筵《むしろ》を張って、お菰《こも》さんの住まいがある。
 飛びこんだ与吉、いきなりそのむしろをはぐったまではいいが、あっ! と棒立ちになった。
 中でむっくり起きあがったのは、なんと! 大たぶさがぱらり顔にかかって、見おぼえのある隻眼隻腕の、痩せさらばえた浪人姿……。

       五

「これは、これは、丹下の殿様。お珍しいところで――その後は、とんとかけちがいまして」
 とつづみの与吉、そうつづけさまにしゃべりながら、ペタンとそこへすわってしまった。
 いい兄哥《あにい》が、橋の下の乞食小屋のまえにすわって、しきりにぺこぺこおじぎをしているから、橋の上から見おろした人が、世の中は下には下があると思って、驚いている。
 筵張りのなかは、石ころを踏み固めて、土間になっている。そのまん中へ、古畳を一まい投げだして、かけ茶碗や土瓶といっしょに、ごろり横になっているのは……。
 隻眼隻腕の剣怪、丹下左膳。
 箒《ほうき》のような赭茶《あかちゃ》けた毛を、大髻《おおたぶさ》にとりあげ、右眼はうつろにくぼみ、残りの左の眼は、ほそく皮肉に笑っている。
 その右の眉から口尻へかけて、溝のような一線の刀痕――まぎれもない丹下左膳だ。
 黒襟かけた白の紋つき、その紋は、大きく髑髏《しゃれこうべ》を染めて……下には、相変わらず女ものの派手な長襦袢《ながじゅばん》が、痩せた脛《すね》にからまっている。
「おめえか」
 と左膳、塩からい声で言った。
「ひさしぶりじゃアねえか。よく生きていたなア」
「へへへへへ、殿様こそよく御存命で、死んだと思った左膳さま、こうして生きていようたア、お釈迦さまでも――」
 右腕のない左膳、右の袖をばたばたさせて、ムックリ起きあがった。
 与吉はわざと眼をしょぼしょぼさせて、
「しかし、もとより御酔狂ではござんしょうが、このおん痛わしいごようす――」
「与吉といったナ」
 と、刻むよう
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