右《みぎ》御意之趣《ぎょいのおもむき》


       一

 山里の空気は、真夏でも、どこかひやりとしたものを包んで、お陣屋の奥ふかく、お庭さきの蝉《せみ》しぐれが、ミーンと耳にしみわたっていた。
 柳生対馬守は、源三郎の兄ですが、色のあさ黒い、筋骨たくましい三十そこそこの人物で、だれの眼にも兄弟とは見えない。
 二万三千石の小禄ながら、剣をとっては柳生の嫡流、代々この柳生の庄の盆地に蟠踞《ばんきょ》して、家臣は片っぱしから音に聞こえた剣客ぞろい……貧乏だが腕ッぷしでは、断然天下をおさえていました。
 半死半生のてい、おおぜいの若侍にかつがれて、即刻、鉢巻のまま主君のお居間へ許された田丸主水正、まだ早駕籠に揺られている気とみえて、しきりに、眼のまえにたれる布につかまる手つきをしながら、
「オイッ! 鞠子《まりこ》までいくらでまいるっ? なに、府中《ふちゅう》より鞠子へ一里半四十七文とな?」
「シッ! 田丸殿、御前《ごぜん》でござる。御前でござる――」
「いや苦しゅうない」
 対馬守は、微笑して、
「其方《そち》らも早駕籠に乗ってみい。主水正は、まだ血反吐《ちへど》を吐かぬだけよいぞ……主水ッ! しっかりせい。予じゃ、対馬じゃ」
「おや、これはいかな! 柳生の里を遠く乗り越して、対馬とはまたいかい日本のはずれへ来おったものじゃが――おウッ! 殿ッ!」
 と初めて気のついた主水正、膝できざみ寄って、
「タ、たいへんでござります。金魚が死に申した」
 江戸家老が、こうして夜を日に継いで注進してきたのだから、もとより大事件|出来《しゅったい》とはわかっているが、対馬守は、さきごろ司馬道場の婿として上京して行った弟、伊賀の暴れン坊が、何かとんでもない問題を起こしたのだとばっかり思っているから、
「ナニ、源三郎が金魚を……何か、司馬先生お手飼いの珍奇な金魚に、源三郎めが失礼でも働いたというのかっ?」
「違いまする、違いまする!」
 田丸は、両手を振り立てて、
「源三郎様とは無関係で――おあわて召さるな。金魚籤の金魚が浮かんで、明年の日光御造営奉行は、御当家と決まりましたぞっ」
 これを聞くと、樽《たる》のような胆ッ玉の対馬守、さっと蒼味《あおみ》走った額になって、
「事実か、それは! 金魚が――金魚が……ウウム、予も早駕籠を走らせてどこぞへ行きたい」
 貧乏な柳生藩に、
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