うぞく》は、たった今|洗濯盥《せんたくだらい》から引き上げたようにびしょ[#「びしょ」に傍点]ぬれなのだ。しかもぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするような蒼い顔で、何一つ口をきかずに、同じ酒を同じ徳利へ入れさせて、そいつを眼八分に持って、ほとんど摺《す》り足で帰って行ったから、さあ、一同すっかりへんな気がして評議まちまちだ。近辺には寺こそ多いが、お社《やしろ》はあんまりない。もっともすぐそばに鹿島明神があるが、そこにはこんな神女《みこ》なんかいはしない。そこで、この白衣《しろぎぬ》の女はどこから来るのだろうということが、第一に店の者の疑問となった。
 実際、暮れ六つというと、毎日必ず下げ髪から身体《からだ》全体をぐっしょり[#「ぐっしょり」に傍点]濡らして、女は跫音《あしおと》もなくやって来る。そして、同じ最上等の酒を一合だけ買って、それを儀式のように捧持《ほうじ》して立ち去るのだ。みんなひとかたならず気味わるがっているうちに、それが、ものの十日も続いた。
 主人の耳にも入って、なにしろ店の者の評判が大きいから、聞いたいじょう捨ててもおけない。ある日女が来たところを掴まえて、番頭にいわしてみた。
「毎度どうも御ひいき[#「ひいき」に傍点]にあずかりましてありがとうございます。わざわざお運びを願うのもなんですから、御住処《おところ》さえお知らせ下さいますれば、毎晩一合ずつ手前のほうからお届けいたします。」
 が、女はじろり[#「じろり」に傍点]と番頭の顔を見たきり、返事もせずに出て行ってしまった。
 唖《おし》だろうということになったが、そうでない証拠にはこっちのいうことはわかるらしい。
 毎日全身ぬれてくるのはどういう仔細だ?
 ぬれてくるわの化粧坂《けわいざか》、はいいが、なんにしても奇態《きたい》な女。
 ――というので、あんまり気になるから、ある夕方、よせばいいのに主人自身がこっそり[#「こっそり」に傍点]女の跡をつけてみた。
 女はすたすた藁草履を踏んで、浜のほうへ歩いて行く。この辺はもう人家もない。右手に薩州お蔵屋敷の森がこんもりと宵月《よいづき》に浮んでいた。
 風が磯の香を運んで来る。行手に、もと船大工の仕事場だった大きな一棟が、荒れはてたお城のように黒ぐろと横たわっている。このさき、建物といってはこれ一つしかないのだ。
 はて心得ぬ! あんなところへはいる
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