のだ。貴様、よくそうやっておれの前に立てるな。もう貴様は、昨日までの貴様ではない。敵将|成吉思汗《ジンギスカン》に――。(蒼白に顫えつつ)これ、合爾合《カルカ》、おれの心も知らずに、よくもこんな差出がましいことをしてくれたな。貴様は、城の身替りに立ったという喜び、城下の百姓町人どもの犠牲になったという心の慰めがあるだろうが、おれは、こ、このおれは――えいっ! 何とか言え! 何とか言わぬかっ!
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合爾合《カルカ》の肩を掴んで揺すぶるが、はっと気づいてその手を放す。
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札木合《ジャムカ》 (ヒステリックに)えいっ、汚らわしい! そ、その肩を成吉思汗《ジンギスカン》めが抱いたのか――ああ、おれは――妻の身体で敵に許しを乞うた、こ、このおれの苦しさは、ど、どこへ持って行けばいいのだっ!
合爾合《カルカ》姫 (冷やかに)誤解でございます。いかにも、妾は成吉思汗《ジンギスカン》の陣屋に一夜を明かしはいたしましたけれど、あの人は妾に、指一本触れませんでした。
札木合《ジャムカ》 なに、指一本触れなかった? 指一本ふれなかった? ははははは、だ、誰がそんなことを信じるものか。これ、合爾合《カルカ》! 城も民も何もかも失っても、わしにはお前があると思っていたのに、軍には負け、お前まで辱しめられて――ああ、おれはどうすればいいのだ!
合爾合《カルカ》姫 (必死に)どうぞお聞き下さいまし。妾の申し上げることを、お信じ下さいまし。成吉思汗《ジンギスカン》は妾を、敵将の妻として、厚く礼遇《もてな》してくれましただけで、ほんとうに何事もございませんでした。
札木合《ジャムカ》 (合爾合《カルカ》を突き退けて)姦婦!
合爾合《カルカ》姫 (冷笑)まあ、何をおっしゃいます。たかが女一人のことで、一城の主ともあろう方が、そんなに取り乱されるとは、ちと見苦しくはございませんか。
札木合《ジャムカ》 ええい、言うな、姦婦! おれは貴様に、死に勝る苦しみを味わされたのだぞ。うぬ、そこ動くなっ!
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発作的に、長剣を抜き放つ。
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合爾合《カルカ》姫 あれ、あなた、狂気されましたか。そのようなお心では、こうして成吉思汗《ジンギスカン》のために打ち負かされるのも当り前、ああ情ない――。
札木合《ジャムカ》 ええい、乱心でもよい。狂気でもよい。なに? なに? うむ、わかった! 貴様なんだな、成吉思汗《ジンギスカン》を想っていたな。いや、きゃつを慕っているな。あっ、そうだ! 貴様、前から、昨夜のような機会を待っていたのだろう。(嫉妬に狂って)さあ、言え。成吉思汗《ジンギスカン》を思っているか、成吉思汗《ジンギスカン》を恋しているか、言え! 言え! 言わぬか。おのれ、これでもかっ! (やにわにばっさり斬りつける)
合爾合《カルカ》姫 (深傷を押さえてよろめきながら、夢みるような顔。間)――成吉思汗《ジンギスカン》!
札木合《ジャムカ》 何いっ――!
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また一刀を浴びせる。合爾合《カルカ》はにっこり笑って落入る。札木合《ジャムカ》は呆然と妻の屍を見下ろして立つ時、遠く進軍|喇叭《らっぱ》の音が起り、開城を喜ぶ部落民のどよめきが湧く。露台のはるか向うの山間に、白い旗が小さく揺れながら、長くつづいて登って行くのが望見される。札木合《ジャムカ》は魂を落したように、ふらふらと立っている。台察児《タイチャル》駈け入って来る。
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台察児《タイチャル》 兄上! ただいま成吉思汗《ジンギスカン》が、不敵にも、単身城へ乗り込んでまいりました。(合爾合《カルカ》の死骸に気づき)おお! 兄上! 嫂上をお手討ちに――!
札木合《ジャムカ》 なに? 成吉思汗《ジンギスカン》が? (と勢い込んで)この上おれを嘲弄しようというのか。よし!
台察児《タイチャル》 兄上、嫂上の仇です。畜生! 膾《なます》に刻んでやる!
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と台察児《タイチャル》、露台の上手へ向って剣を振り、合図する。槍、抜刀を携えたる城兵五、六人、そっと出て来て、露台の中仕切りの陰に潜み、伏兵となる。札木合《ジャムカ》と台察児《タイチャル》は、あわただしく眼で相談し合い、その中仕切りに懸けてある旗を取って、合爾合《カルカ》の死体を覆い、またその上に王座の後ろの丈高き二枚折りの刺繍屏風を持ち来って横ざまに被せ、屍骸を隠す。そうして、両人気を配って待つところへ、下手の扉より、総大将の武装美々しき成吉思汗《ジンギスカン》、微笑を含んで足早やにはいって来る。
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