いか、そうれ! こうして、環刀の鞭を揮い、露を飲んで、敵へ向って風のように飛んで行くのだ――。
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と己《おの》が気を紛らせようと、全身の力を罩《こ》めて、剣舞のように合戦の仕草をして見せる。合爾合《カルカ》姫は呆然と見守っている。
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成吉思汗《ジンギスカン》 ああ、気が散って駄目だ。なに糞っ! (再び力を入れて、大きく身振りをする)われ成吉思汗《ジンギスカン》の赴《おもむ》くところ、青草の一つ、仔羊の皮だに残さず。われ怒りて、五百|尋《ひろ》のところより矢を射らば、五百人の人を倒し、九百尋のところより矢を射らば、九百人の人を斃《たお》すべし――。(ふと気づいて、苦笑する)と、まあ、世間では噂しているよ。やあ、お寝み。
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子供のように快活に、下手、天幕の出口に坐り、膝を抱く。
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成吉思汗《ジンギスカン》 ああ好い月だ。砂漠に照る月の美しさは、旅行者の話に聞いた、遠い東の海とかいうものを思わせる。(長い間)
合爾合《カルカ》姫 (寝台から成吉思汗を見つめながら、半身を起して)成吉思汗《ジンギスカン》! なにしに妾をここへ呼んだのです。
成吉思汗《ジンギスカン》 このおれの心は、誰も知らない。誰も知らない。銀の鱗と騒ぐ斡児桓《オルコン》と塔米児《タミイル》の川波が、知っているばかりだ。うむ? (合爾合《カルカ》の問いに気づき)何のために、あなたをここへ呼んだ? ははははは、それは、朝になればわかるだろう。僕はここで、一晩中あなたをお守りする。成吉思汗《ジンギスカン》を信じて、ゆるゆるお眠みになるがいい。
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寝台の傍の猛虎が、いきなり凄い唸り声を発する。
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合爾合《カルカ》姫 おお怖《こわ》い! この虎をあっちへ連れて行って下さい。でも、砂漠の虎|成吉思汗《ジンギスカン》よりも、妾にはこの虎のほうが、まだ安全かも知れませんわね。
成吉思汗《ジンギスカン》 月が照ると、こいつは故郷の山を思いだして、吠えるのです。木華里《ムカリ》! 木華里《ムカリ》はいないか。
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天幕の入口に、巨漢|木華里《ムカリ》が現れる。
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成吉思汗《ジンギスカン》 あはははは、木華里《ムカリ》、われわれの結婚の夜の邪魔をするのは、この心ない太陽汗《タヤンカン》だよ。連れて行ってくれ。
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木華里《ムカリ》は、長い鞭をふるって虎に近づき、大きく床を打つ。
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木華里《ムカリ》 さあ、出て失せろ。乃蛮《ナイマン》の太陽汗《タヤンカン》め! (鞭の音唸る。猛虎は怒って、跳びかかりそうな敵意を示す)
成吉思汗《ジンギスカン》 (静かに起って行って)太陽汗《タヤンカン》! (一白睨《ひとにら》みで、虎は穏和しく立ち上り、木華里《ムカリ》に続いて天幕の外に去る。月いよいよ照り返る)
成吉思汗《ジンギスカン》 (元の天幕の出入口に帰り、床に坐る)ははははは、この成吉思汗《ジンギスカン》には、あなたに対する私の心中の虎のほうが、あの太陽汗《タヤンカン》よりどんなに恐しいかしれない。いや、合爾合《カルカ》、なにも怖がることはないよ。
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と膝を抱いて、月に見入る。どこからか兵士の奏《かな》でる胡弓《こきゅう》の音が漂ってくる。姫は寝台に身を起して、じっと不思議そうに成吉思汗《ジンギスカン》を見詰めている。長い沈黙がつづく。咽ぶような胡弓の調べ。舞台一面の青白い月光、やや傾きそめる。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (ひとり言のように)あれから何年になるかなあ。君あ記憶《おぼ》えているかしら。まだ、僕のおやじ、也速該巴阿禿児《エスガイパアトル》が生きているころ、僕の家と君の家は、森ひとつ隔てていたねえ。
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姫は意外な面持ちで聞き入っている。
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成吉思汗《ジンギスカン》 ええと、あの森は何てったっけな――何といったっけね、あの森は?
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合爾合《カルカ》はつんと横を向いて、答えない。
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成吉思汗《ジンギスカン》 あの、ほら、真ん中辺に、こんな大きな樹が三本立ってる森さ。忘れた
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