ないのでござります。
まあ、これは、手前の内輪のはなしになりますが、わたしが、お城づとめをひいてまもなく、もうけ話があって京阪《かみがた》のほうへ参りますとき、そのうち帰って来て楽をさせてやるからといいのこして出ましたのに、その後、何度手紙を出しても返事もよこさず、先ごろ、どうやら芽が吹いて江戸へかえりますと、すぐその足で麻布の家へたずねて行きましたところが、高音はとうに家出して行方知れずになっているとのことで、じつは、どうして捜し出したものかと、途方にくれておりましたところでございます」
「いえ、それは」とお高がはじめて口をはさんだ。膝でたたみをきざんで、なじるように詰め寄った。「いいえ、それではまるでお話が違います」
「まあ、いい」
若松屋惣七は、手で制した。
「磯屋さんの言い分を、ひととおり伺いましょう」
三
「でございますから、何もわたしは、知らん顔をして、現在じぶんの女房となっている女から、二百や三百の金をやいやい[#「やいやい」に傍点]取り立てようとしたのではございません。何だか、人情しらずのやつとお考えのようですが、決してそういうわけではないので、はじめから、とんでもない間違いだったのでございます。
じつを申せば、わたくしこそ、あちらへ旅だちますときに、これの金子《きんす》を少々借用いたしまして、それがそのまま借りになっておりますくらいで。わたくしから女房のほうに貸しなどと、ぶるる! めっそうもござりませぬ。わたくしこそ、借りたものを返さねばならぬと、あちこち心当たりをさがしておりましたが、それでも、まあ、こうしてこちら様で会って、大きに安心いたしました。
いえ、全くのはなし、あの商売をのれん[#「のれん」に傍点]でと、雇い人ごと買い取りましたときに兼吉《かねきち》という一番番頭が申しますには、これこれこれこれのお顧客《とくい》さまへ貸しになっている。どうしたものでございましょうといいますから、商売を新しくするためにも、このさい何とかして取り立てねばならぬ。いいように計らってくれ、こう申しつけましただけで、そのときじつは、その貸方のあて名先を、手前は見なかったのでございます。
なお、なかでも難物だけ一まとめにして、さっそく若松屋さんへ取り立てを、お願いすると申しておりましたが、あとになって、その、こちら様へ御厄介をお頼みした分のなかに、麻布十番の高音という口があると知りまして、それは大変だ、それこそわたしが、神信心までしてさがしている女房なのだ、というわけで、さっきも申しましたとおり、その取り立ての取り消しに、こうして駈けつけてまいりましたようなわけで――ところが、そのこちら様に、当の高音が御厄介になっておろうとは、いやどうも、近ごろ不思議なまわり合わせでございましたな」
長ながと弁じ立てながら、この、あとのほうの、当の高音がこちら様に御厄介というところに、ちょっといや味を持たせて、それとなく探るように、惣七を見ていた眼を、ちらっとお高へ走らせた。
惣七は、石になったように動かなかった。
「ほかにも、取り立ての御依頼があるとのおことばだが、近ごろお店からまいっているのは、この一件だけです」
「ははあ。それなら、今明日中にでも、続々お願いしてまいることと存じます。その節は、どうぞよろしく」
「いや。手前のほうこそ」
と、さりげなく応対しながら、若松屋惣七は、あたまのなかで考えていた。いま、たとえこの男を、刀にかけてぶった[#「ぶった」に傍点]斬《ぎ》ってみたところで、面白おかしくもない。野暮の骨頂であるのみか、公儀のほうもむつかしい仕儀になって、かえって事態を悪化させるばかりである。
それよりは、相手も商人、こっちも商人、それなら、いっそのこと商道で争ってやろう。剣のかわりに算盤《そろばん》で渡りあうのだ。刀を小判に代えて、斬り結ぶのだ。そうだ、面白い。こいつを向こうにまわして、知恵を削《けず》ろう。掛け引きでいこう。若松屋が倒れるか、磯五の屋根にぺんぺん草がはえるか――これは、われながら大芝居になりそうである。
と気がつくと、若松屋惣七は、即座に顔いろをやわらげていた。
磯五がいっていた。
「おわかりくださいましたか」
惣七は、上を向いて笑った。
「いや、よくわかりました」と彼は、こともなげにつづけて、
「それはそうと磯屋さん、そんなら、この二百五十金は、まあ、棒引きでございましょうな」
磯屋も、にっこりした。
「申すまでもござりませぬ。手前のほうからいい出して、それはまあ、すっぱりと、なかったことにしようと考えておりましたところで――これに、証文がござります。焼くなり破るなり、どうぞ御随意に――」
磯五は、ふところを探って取り出した一札を、若松屋惣七のほうへ押しやった。
四
「さすがおわかりが早い。恐れ入った御挨拶で――」
若松屋惣七は、手をおろして、取ろうとした。その手を、磯五が押さえた。
「お待ちください」
「はて!」
「若松屋さんはおわかりくだすったが」と、磯五は、あらためてお高のほうへ、「お前はどうだ。お前もわたしの話がわかってくれたろうな」
「知りませぬ」
きっぱりいい放って、お高は、高いところへ上がったように、眼がくらむ感じがした。若松屋惣七には、お高は、三年ぶりに別れていた良人に会っても、何の感情もないもののように感じられた。憎しみも恨みもないようすなのだ。磯五に対する限り、お高のこころは死灰《しかい》のようになっているのであろうか。
それも、むりはない。出て行けがしにしたあげく、有り金をさらって逐電した良人である。こうして再び顔が合ったところでふたりのあいだは、他人以上につめたいのかもしれない――若松屋惣七は、いろいろに考えた。
一枚の証文のうえに、惣七と磯五と、二つの手が重なったまんまだ。
惣七は、ほのあたたかい磯五の手を感じた。白い、やわらかな手だ。はげしい労働や武術を知らない手だが、これは弱いようで、強い手である。一つの目的を達するためには、すべてを犠牲にするだけの熱をもっているのだ。水のように弱い。しかし、やどり木のように強い。宿り木は、執拗《しつよう》にまつわりついて、ときとして、大木の精分を吸いとって枯らすことさえあるのである。
惣七が、こんなことを考えたのは、ほんの一瞬だ。磯五が、証文の一端を押さえて、ささやくように、低い声でいっていた。
「この証文を御処分願う前に、一こと伺いたいことがございます――正式に離縁状が出ていない以上、たとえ何年別れておりましても、妻は妻、良人は良人でございましょう?」
「もとより」
たたみの上の一枚の紙を、両方から押さえているので、顔が寄っていた。今にもがらり[#「がらり」に傍点]と伝法に変わりそうな磯五のようすに気づいて、若松屋惣七は、心がまえをした。早い殺気が、ひやりと流れた。
「この証文をお渡しするかわりに、ひきかえに高音をいただいて参ります」
「それは、御勝手です」
「が、知らぬは亭主ばかりなり――そんなようなことですと、磯屋五兵衛も顔が立ちませぬので」
お高はあっ[#「あっ」に傍点]と出ようとする叫びを、袂《たもと》で押さえた。惣七は蒼《あお》い顔を笑わせた。
「ははは、何のことかと思えば――すてた女房に出会った照れかくしに、話しあいで旅に出たのだの、江戸へ帰ってからさがしておったことのと、調法な口をならべるばかりか、今また、あはははは磯屋さん、あんまり笑わせないでください」
「それでは、いっさいひょんな関係《かかりあい》はないとおっしゃるので――?」
「御冗談を。このお高は、ただいま手前が女房同様にしている女でございます」
平然といってのけると、若松屋惣七は、証文を持った手を引いて、びり、びり、と細かく破り出した。
磯五も、平気で起ち上がっていた。二、三歩、惣七のまえへ進んだ。
「若松屋さん、間男《まおとこ》の成敗だ。ちっと痛かろうが、がまんしていただきましょう」
いきなり、拳《こぶし》を振り上げて、若松屋惣七の横面を打った。あっと叫んで、狂気のようになったお高が、ふたりのあいだにころがりこんだ。
「何をなさいます! 旦那さまは、どんなにわたしにお情けぶかくしてくださいましたことか、そのお礼も申し上げずに、お眼の不自由な旦那様を、ぶつとは何事です!」
「他人《ひと》の女房にやたらになさけぶかくされて耐まるものか。高音、そこのけ!」
「いいえ、お前さまこそ、人でなし! わたしをあんなひどいめに合わせておきながら、さっき黙って聞いていれば、待っているようにといい残して旅に出たとは何といういいぐさです! あちこちさがしていたなどと、うそをつくにもほどがあります! ――」
「ええっ! うるさい」
磯五は、お高を振りのけて、また惣七へ迫った。惣七は、平然とお高をかえりみた。
「心配いたすな。間男といえば、間男に相違ないのだ。痛くもない。なぐらせてやるのだ」
「何をへらず口を!」
磯五の拳が、あられのように惣七の面上に下った。惣七は、磯五の手をよけようともせずに、しっかりすわって、しずかに証文を破っていた。蒼白く笑っていた。
「佐吉、国平、刀を持て!」
彼は、そう叫びたかったが、何か考えでもあるのか、そう叫ぶかわりに、じっとくちびるをかんで、磯五の拳を受けつづけていた。
「ああ、すまない! それではすみません!――」
お高が、泣きじゃくって、再び磯五にむしゃぶりついたが、たちまちはねのけられてしまった。
お高の泣き声と、磯五が若松屋惣七をなぐる音とが、しばらく入りまじって聞こえていた。
磯五がなぐり終わったとき、惣七は証文をやぶり終わっていた。
惣七は、手の上の紙きれをふっと吹いた。雪のように飛んだ。惣七は、ところどころ色の変わった顔を上げた。笑っていた。
「磯屋さん、もういいのかね?」
五
若松屋惣七という人間は、妙な人間だ。ときとして、こんなに鉄のように固いのだ。すこしも感情を外へあらわさない。茶坊主あがりのならず者磯屋五兵衛も、さすがにうす気味わるくなったものか、なぐっていた手を引っこめて、あきれたように、惣七を見た。
惣七は、にこにこしていた。磯五は、泣きくずれているお高を引っ立てて、早々に帰ろうとしていた。彼は、惣七とお高のまえに嘘《うそ》八百をならべたものの、じつは、女房の高音と知りつつ二百五十両を取り立ててもらうつもりで、なおよく頼み込みに自分で若松屋へ出かけて来たのだが、そこで思いがけなく高音のお高に会って、引っこみがつかなくなり、証文を棒に振ったくやしまぎれに、間男をいい立てて惣七をなぐったのだ。
彼は、これを種に、いずれ若松屋をいたぶるつもりでいるのだが、今は、いくらなぐっても、相手が平気に澄ましているから、始末がわるい。一つどうんと惣七を蹴倒《けたお》しておいて、お高を促して部屋を出ようとした。
お高は、泣いて、惣七に取りすがっていた。
「旦那さま、ああいう乱暴者でございます。わたくしのことから、とんだめにおあわせ申して――何か話があるから、店へ来るようにとか申しております。ちょっと行って参ります」
「ああ行きなさい」若松屋惣七は、何ごともなかったように、けろりとしていた。「もう帰って来んでもよい。もちろん、帰ってこんだろうが、帰って来ないでも、わたしは困らぬというのだ。安心して、磯屋さんのいうとおり、またいっしょになれるものなら、いっしょになったがよかろう」
「いいえ。そんなそんな悲しいことをおっしゃらずに――お高は、きっと帰って参ります。おそくとも、必ず夕方までに帰って参ります」
そういって、お高は、磯五の待たしてあった駕籠《かご》に乗せられて、金剛寺坂の家を出たのだった。若松屋惣七は、つるりと顔をなでて、すわったまんまだった。若松屋惣七は、へんないきさつから、長いあいだの夫婦喧嘩《ふうふげんか》に飛びこんだようなもので、要するに、自分には何の関係もないことなのだ。
何といっても、磯五と
前へ
次へ
全56ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング