い声だ。「わしが大馬鹿だった。誰を恨みようもない。おのが綯《な》った縄《なわ》で、縊《くび》れ死ぬようなものなのだ。お高どの、掛川宿《かけがわじゅく》の具足屋という宿屋のことを話したことがあったかな?」
「はい。伺いましてございます。脇本陣《わきほんじん》とやらで、たいそうお立派な御普請でございます。いつぞやも絵図面を見せていただきましてございます」
「そうであったかな。あの具足屋の一件なのだ。掛川までは、わたしも、ちと手を伸ばし過ぎたのでしょう。今ごろたたって参った」
「とおっしゃいますと、すこしも引き合わないのでございますか」
「いや、ひき合わぬことは、はじめからわかっておった。宿場の旅籠《はたご》などという稼業《しょうばい》は、俗にも三年宿屋と申してな、はじめてから三年のあいだは、おろした資本《もとで》がすこしもかえらぬのが、ほんとうだ。その三年のあいだに、ちっとでも利をみようというほうが、むりなのだ。だから、もうけのないことも、当分は金を食う一方であることも、驚かぬぞ」

      二

「が、その三年目も、来年である。来年になれば、具足屋もそろそろ上がりがあろうと思っておったにもうおそい。お高、そちは、東兵衛という名を聞いたことがあるか」
 お高は、つばをのんで、うなずいた。ぱっちりした眼が、若松屋惣七の額部《ひたい》を凝視していた。眉《まゆ》のあいだの刀痕《とうこん》をめざして、両方から迫りつつある若松屋惣七の眉毛が、だんだん危険なものに見えてきていた。
 暗くなりかけていた。お高は、灯がほしいと思ったが、惣七のはなしがつづいているので、お高は、灯を入れに起つひまがなかった。起つ気にも、なれなかった。夕風が渡って、障子紙の糊《のり》のはげた部分を、さやさやと鳴らした。風には、雨のにおいがしていた。じっさい、そのときも大粒なやつが、ぽつりと一つ縁側をたたいて、かわいた板に吸われていっていた。暴風雨《あらし》を予告するものがあった。
 お高は、東兵衛という男のことを、聞いたことがあるのだ。その東兵衛という男は、もと藤沢《ふじさわ》で相当の宿屋をしていたのが、すっかり失敗して困っていたのを若松屋惣七が、例の侠気《おとこぎ》から助け出して、東海道の掛川の宿に、具足屋という宏壮《こうそう》な旅籠をひらかせて、脇本陣の株まで買ってやった男である。
 もっとも、若松
前へ 次へ
全276ページ中49ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング