仲間と果たしあいをした。相手も、相当できる男だった。仲裁がはいって、人死には出なかったが、そのとき惣七は、両眼のあいだに怪我《けが》をしたのだ。不覚なようだが、もののはずみだったと自分では思っている。それから、眼が悪くなって、おまけに、その女も、相手の男にとられてしまった。
そこで、というわけでもない。もとから、侍《さむらい》がいやになっていたやさきだったので、惣七は、ひらりと稼業《しょうばい》がえをした。さむらいをよして、町人になった。若松屋惣七となった。剣悟の呼吸《いき》で、金をあつかいだした。恋を失った自暴《やけ》もあった。が、はじめは、その苦しみを忘れるために、小判の鬼と化してやれなどという、そんなはっきりした気もちではなかったのだ。ただ、どうせ泰平の世である。武士では、出世のしようがない。剣では身が立たない。と思って、すっぱり鞍《くら》替えをしただけのことなのだ。
しかし、何でも、やり出してみると、面白い。夢中にさえなれば、武道も商道もおなじこつ[#「こつ」に傍点]なのだ。いつのまにかここまできた。きょうの若松屋惣七は、むかし星影一刀流に落葉返しの構えを作り出したように、金銭の取り引きに、彼独特の一つの秘奥《ひおう》を編み出している。悟りをひらいている。小判を手玉にとる名人の域にまで達しているのだ。これが、若松屋惣七の若松屋惣七たるゆえんだ。
女のことは忘れている。忘れようと骨折っている。忘れようとして骨を折らなければならないほど、忘れられないのだ。若いころのことを思うと、よくもああいろいろ馬鹿《ばか》なことができたものだと思う。それでも、武士の生まれであることは、身にしみている。だから、若松屋惣七は、ひとりでいると、名前らしくない、あんな四角ばった口調になるのだ。直そう直そうと思いながら、いまだに、さよう然《しか》らばが口に出る。知らない人からみると、へんてこな町人だ。
両替渡世の看板をあげているわけでも、若松屋という暖簾《のれん》が出ているわけでもない。家は、小石川の金剛寺坂だ。ちょうど安藤飛騨守《あんどうひだのかみ》の屋敷の裏手である。父の同僚《なかま》の住みあらしたあとを、もうけた金で買い取ったのだ。かなり広い。木立ちも多い。が、なにぶん荒れはてた古い家である。
そんなところで、生き馬の眼を抜くような稼業《しょうばい》をしている。しかも、
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