寺殿は、あまりに行く行くというて行かぬので怒っておらるるかもしれぬぞ。とにかく、具足屋は立派に芽を吹きました。何から何まで、龍造寺殿のおかげじゃ。繁昌《はんじょう》ぶりを見て、とっくりとお礼を申し上げたいと思う。あすたちます」
お高は、やっといった。
「ごきげんようおいでなされませ」
「ふん。それだけの挨拶か」
「お達者で――」
「ははは、お前も、達者でくらすがよい。いや一年も二年も帰らぬようないいぐさだな。ナニすぐもどって参る」
「ほんとに一年も二年も、お眼にかかりませんつもりでございます。おかえりになりましても高とのことはもうこれきりでございます」
若松屋惣七は、見えない眼をぐっと見ひらいて、お高の顔を探した。
「なぜそんなことをいうのだ」
「なぜでも、もうお眼にかかりませんでございます」
「まだあの磯五のことが気になっているのだな、縁切り状を書いたとか、書かせたとか、磯五からもお前からも聞いたようにおぼえているが、あれは、つくりごとであったのだろう。うう、なに夫婦のあいだのことだ。何を申し合わせて他人をいつわろうと、それはそっちのこと。だまされた他人のおれが、愚かであったよ」
三
袂で顔と泣き声をおおったお高だ。ふらふらとたって、その、惣七の帳場になっている奥の茶室を出て行こうとした。
若松屋惣七の眼が、じろりと光って、お高を追った。
「どうするつもりなのだ」
お高は、手をかけた襖に顔を押し当てて、肩をふるわせてむせび泣いていた。
草をたたく雨の音がしていた。灰いろの重い雲が、庭の立ち樹のすぐ上にあるのだ。近くの枝から枝へ、濡れた鳥の声がするのだ。しいんと遠のいた江戸の巷音《こうおん》だ。はねつるべの音がしていた。その、番傘《ばんがさ》をさして水をくんでいる国平の番傘が、青桐《あおぎり》の幹のあいだに、半分だけ見えていた。
「拝領町屋のおせい様の家へ行って、当分おせい様といっしょにくらす考えでございます。おせい様はお可哀そうでございますよ。おせい様は、ああして歌子さまと旅には出たものの、あきらめ切れないで帰っておいでなすったのでございます」
「あきらめ切れずにと申して、磯五のことか」
「はい。おせい様はまた、あの五兵衛さんのことを想《おも》っていらっしゃるのでございますよ」
「女というものは不思議なものだな。また、かの磯五のごとき男
前へ
次へ
全276ページ中230ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング