ずみ》一匹も逃がすな」
 糸屋のおかみさんは、おおこわいといって、お高を離れて店の奥へもぐりこんで行った。和泉屋では、いま飛びこんだ人たちが戸障子を蹴倒したり、商品をこわしたりする音が、ものすごく聞こえていた。
 あとからあとからと押しかける群集で、暗くなりかけた路上は、身動きもならない。八百万《やおまん》の若い者や、角の夜駕籠《よかご》かきや、町内のばくち打ちなどの威勢のいい連中が、めいめい獲物をふりかざして、和泉屋に頼まれて警戒に来ていた他町の鳶の者と渡り合っていた。
 どさっ[#「どさっ」に傍点]と濁った音をたてて、棒が人の頭上に落ちたり、うす闇黒《やみ》に鳶ぐちがひらめいたりするたびに、お高は、両手で顔をおおった。それでも、糸屋の軒下に押しつけられて、人の肩ごしにのぞいていた。
 とめに出ていた金剛寺の学僧たちや、町内の世話役なども、手の下しようがなくて、怪我をしない用心をしながらただ見物していた。月番家主らしい羽織を着た老人が、縦横に人をわけて走りながら声をからしてどなっていた。
「火の用心だけあ頼むぜ。いいか。火の用心を忘れめえぞ」
 誰も、耳をかすものはなかった。

      二

 混乱の上に、夕風が立った。暴動――それはもう暴動といってよかった――は、拡大する一方である。この、戦争のような地上に引きかえて、空は、残映から夜へ移ろうとして、濃紺と茜《あかね》との不可思議な染め分けだ。ゆうやけは徐々に納まって、水のような深い色が、ひろがりつつある。白い月だ。星も、白いのだ。
 薄暮が落ちてくるにつれて、お高は、だんだん恐怖を感じ出した。この騒ぎがいつまでもつづくようだったら、じぶんは一晩じゅう家へ帰れないで、ここに立ちつくさなければならないのだろうか。その不安だ。お高は、蒼い空気の中で、土を蹴って馳駆《ちく》し狂闘している人々を、なさけない眼で見はじめた。
 すると、一時にあちこちにわめき声が起こった。いつのまにか一人の男が、和泉屋の屋根をはっているのだ。その男は、夜盗のような身軽さで、山形になっているてっぺんへ上って行った。群集は、はじめ仲間のひとりであろうと思って、下から歓喜の声を吹き揚げて声援した。男は、腰から、何か道具のような物を抜きとって、瓦をはがし出したので、群集はいっそうよろこんだ。
 ところが、そうして喝采《かっさい》している群集のう
前へ 次へ
全276ページ中168ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング