ので、龍口寺詣りのはなしは、そのままぐずぐずして、一時立ち消えの形だった。
 じっさい、人に旅を思わせる好天気がつづいて、江戸の空は、藍甕《あいがめ》の底をのぞくように深いのだ。朝早く、金剛寺の森にうぐいすが鳴く。夜も昼も、草木の呼吸する音が聞こえるような気がした。そんな毎日だった。
 お高が、縁側へ古い手紙類を持ち出して、一応眼を通したのち、一つひとつ丹念《たんねん》に破いているところへ、玄関に人声がして、国平が取り次ぎに出た。お高は、手紙を巾広く破いておいて、あとで、それを折ってはたき[#「はたき」に傍点]をこしらえましょうと思って、そのとおりに気をつけてやぶいていた。うしろへ、国平が来てうずくまった。
「一空《いっくう》さんが、おめえ様に会いてえといってお見えになったのです」
「一空さん――」
 お高は[#「お高は」は底本では「お高い」]、不意に思い出せないで、眉を寄せて、考えた。
「へえ。裏の金剛寺の一空和尚なのですよ」
「まあ、あの和尚さまが来たのですか。それで、わたくしに御用がおありだとおっしゃるの。上げてくださいよ。お座敷へお通し申しておくのですよ。えらい坊さまですから、失礼のないようにねえ」


    洗耳房《せんじぼう》


      一

「では、一空さまをこちらへ」
 まもなく、まるい顔に細い眼を笑わせて禅師が、その部屋にお高と向かいあってすわっていた。
「だしぬけにまいって、お邪魔ではござらぬかな」
「いいえ。どういたしまして」
 お高は、金剛寺の境内などで、両三度この坊さまを見かけたことはあったが、こうしてそばでしげしげと見るのは、はじめてであった。おかしい人だとばかり思っていたのが、何だかなつかしい人だと思った。こういう坊さまだからこそ、じぶんの費用で学房などをひらいて、近所の子供と仲よしになっているのだと思った。
「じつは、先日|洗耳房《せんじぼう》のために喜捨《きしゃ》してくれたお武家が、当屋敷に厄介になっておると聞いて、礼をいいかたがた、ぜひ見てもらいたいものがあって来たのだが、いま玄関で聞けば、あの人はもうおらんという。そこで、代わりにあんたに会うてみる気になった」
 洗耳房というのは、寺内に結んでいる一空和尚の庵室のことであった。そして、そこへ近隣の小児《こども》たちをあつめて、学問を教えているのだった。
 お高は、龍造寺主
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