の錚々たるものかも知れませんな、あっはっはっは、いや、風声|鶴唳《かくれい》、風声鶴唳――。」
 小林は、手文庫から、元赤穂藩の名鑑を取り出して、畳のうえにひろげて見ていたが、つと一個処を指さして、
「ほら、ここにある。前原|伊助《いすけ》宗房《むねふさ》、中小姓、兼金奉行、十石三人扶持――。」

      二

 一角は、貧乏ゆすりのように、細かく肩を揺すって、口のなかで呟いていた。
「清水一角、とはこれ、世を忍ぶ仮りの名。何を隠そう、じつを申せば浅野内匠頭長矩家来――などということに、そのうちおいおいなりそうですな、この分ですと。はっはっは。」
 が、かれは、小林の真剣な表情に気がつくと、名鑑のうえに眼を落として、
「ふうむ。で、この前原というのが、あのうら門まえの米屋だという確証は、挙がっているのですな。それなら、今夜にでも、ぶった斬ってしまいますが。」
「まあ、待て。こっちのほうは、いま星野に命じて探りを入れさせている。」
「では、その報告を待ってからのことに――だが、どうも私は、皆すこし、神経過敏になっているように思う。」
「しかし、清水、暮れに近づいたせいか、何かこう、世上騒然としてまいったな。」
「そういわれると、」と、一角は、微笑して、刀をかまえる手真似をした。「近いうちにあるかもしれませんな、これは。」
「うむ。それについてだ。」
 小林は、膝をすすめて、
「君の兄貴の狂太郎君、ぜひあの狂太郎君の出馬を仰ぎたいと思ってな――。」
 一角も、火桶ごしに乗り出して、小林の口へ耳を持って行った。
 密談が、つづいた。
 元禄十五年、十二月四日だ。

      三

「兄者、兄者っ――!」
 清水一角の武骨な手が、きょうも朝から食《く》らい酔って大の字形に寝こんでいる、兄狂太郎のからだに掛かって、揺り起そうとした。
「兄者! またか。夜も昼も食べ酔って、困った仁《じん》じゃなどうも。」
 一角は、黒羽二重の着流しの下に、紐で結んだ刺子の稽古着の襟を覗かせて、兄の顔のうえに、かがみこんだ。
 常盤橋《ときわばし》際《ぎわ》から、朱引き外の本所松阪町へ移った吉良家門内の長屋で、一角はいま、小林の許を辞して、この、じぶんの住いへかえってきたところだ。
 無双連子《むそうれんじ》の窓から、十二月にはいって急に冬らしくなった重い空が、垂れ下がって見えて、水のよう
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