こら逃げて来ましたわい。まったく、あとが怖い。憎い鷹《たか》には餌をやれで、例の天瓜冬の三百か五百――先方《さき》もあてにしているんですなあ。」
「それだけ知っていて、なぜやらぬ。」
「殿様の御気性《ごきしょう》を御存じでしょう――。」
 納戸役の北が、腕組みをして溜息を吐いた。
 十寸見が、乗り出した。
「立花様のほうへ、それとなく伺ってみました。添役だから、内輪《うちわ》にして百両――だいたいそんなところだったらしい。」
「そうだろう。添役で百両《いっそく》なら、本役の当家は、やっぱり、五百という見当だ。そこを、扇箱|一個《ひとつ》なんて、間抜けめ! 吉良のやつ、今ごろかんかんだぞ。」
 三人は無言だった。
「訊いてくる。」
 辰馬が、膝に手を突っ張って、起き上りかけた。
「ちょっと、お待ちを――。」
「停めるな。泉州岸和田五万三千石と、一時の下《くだ》らぬ強情《ごうじょう》と、どっちが大切か、兄貴にきいてくるのだ。」
 歩き出すと、久野が、追いすがった。
「しかし、殿様はもう、吉良殿と一喧嘩なさるおつもりで、気が立っておられますから――。」
「その前に、おれが兄貴と喧嘩する。金で円《まる》くすむのに、家のことも思わずに、何だ。おれにも考えがある。離せ!」
 振りきって、跫音が、美濃守の居間のほうへ、廊下を鳴らして曲った。


   夜の客

      一

「平茂か。進むがよい。」
 吉良の声を機《しお》に助かったように孫三郎が座を辷《すべ》ると、入れ違いに、平野屋茂吉が吉良の前にすわった。
「驚きました。達磨《だるま》は面壁《めんぺき》、殿様|肝癖《かんぺき》――。」
 つるりと顔を撫でて、平伏しながら、
「何ごとかは存じませんが、平に御容赦。ほどよい女子を探しあてましたる手前の手柄に免じて、ここは一つ、お笑い下さいまし。お笑い下さいまし。」
 吉良は、穿《は》き古した草鞋《わらじ》のような感じの、細長い顔をまっすぐ立てたまま、平茂のことばは、聞こえていて聞こえていなかった。
「美濃めが――。」
 と、口の隅から、つぶやいた。
 ――高家筆頭《こうけひっとう》として、公卿堂上の取次ぎ、神仏の代参、天奏衆上下の古礼、その他|有職故実《ゆうそくこじつ》に通じている吉良だった。勅使饗応を命じられた大名は、吉良の手引きがなくては、手も足も出ないのだった。自然、この
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