ずにはいられなかった。
「一般の読者は低劣なものでしょう。使丁《してい》走卒《そうそつ》を相手にする気で戯《ふざ》け半分に書けばよいのでしょう。」
と六樹園はそれが骨《こつ》だと教えるように三馬に言った。三馬は表情をあらわさなかった。
「さあ、さようなものでげすかな。」
「尊公などの読者を掴む秘伝は何です。やはり筆を下げることでござろう。」
「下げると見せて下げるにあらず――。」
「いや、そうでない。大衆は済度《さいど》しがたいものです。愚劣な敵討物を騒ぐだけでもそこらのことはよくわかります。調子を低《さ》げれば大当り受合いだと思いますがな。」
「おのれから低めてかかってどうして半人なり一人なりに読ませて面白かったと言わせることができやしょう。それでは頭《てん》から心構えが違いやす。」
「なに、失礼ながら尊公などは臭いもの身知らずです。この私がぐんと調子を下げて、あたまに浮かび放題、筆の走るに任せてでたらめを書けば喝采疑いなしです。」
「でたらめに見えてでたらめにあらず。」
三馬もさすがにちょっとむっとしてそう言った。
すると六樹園は面白そうにこう提案した。
「一つ競作をやりましょうかな。これから尊家が一作、不肖《ふしょう》が一作、ともに敵討の新作を書き下ろして、どっちが世に受けるか競作というのをやってみましょう。いかが。」
「面白いでげしょう。と言いてえところでおすが、宿屋の飯盛大人に出馬されては、さしずめこの三馬など勝つ術《て》はげえせん。先生がその学識文才をもって愚婦《ぐふ》愚夫《ぐふ》相手の戯作の筆を下ろしゃあ、それ、よく言うやつだが、一気に洛陽の紙価を高めというやつさ。版元《はんもと》は先生の名を神棚へ貼って朝夕拝みやしょうて。」
ほんとにそう思っているのかどうか三馬は唆《おだ》てるように言った。
思っていることを言われて六樹園は悪い気はしなかった。もう根っからの戯作者らしく、
「なに、それほどでもげえせん。」
と三馬の口真似をして笑った。とにかく純文学の六樹園と戯作渡世の三馬と、ここに競作をしようということに約束ができて三馬はまたぶらりと帰って行った。
その夜から六樹園は敵討ちの黄表紙の筋立てを考えはじめた。できるだけ愚にもつかないことを恥知らずの無学な筆で下品に書き流せばいい、大衆は低いものだから調子さえ下げれば大受けに受けると思っているので、どうしたら馬鹿にしてかかることができるかとそれに骨を折った。難かしくなってはいけない。折助《おりすけ》やお店者や飴しゃぶりの子守り女やおいらん衆が読むのだからと絶えず自分に言い聞かせても、どうしてもその読者の正体が、あまりに広いためにはっきりしなくて雲を相手に筆を執るような意外な不安があった。
六樹園はすこし持てあましたが、それにつけていつの間にか熱中している自分を発見して苦笑した。三馬はきっと相変らず酒を飲みながら楽々と書いているだろうと思うと、すこし憎らしいような気もした。
敵討物の傍若無人の横行に業《ごう》を煮やしたことが動機となってやりだしたことだから同じようなものではもとより面白くないと思った。あまりに人死にが多く全篇血をもって覆われて荒唐無稽をきわめているのが、いくら狂言綺語とはいえ人心を害《そこな》うものだという建前に発しているので、自分は一つ、一人も人が死なず一滴も血をこぼさない敵討物を書いて一世を驚倒させてやろうと考えた。そして練り上げてできた一つの筋に、「敵討記乎汝《かたきうちおぼえたかうぬ》」の題を得た時、六樹園は得意満面で独りで大笑いに笑った。
それだけわれ人を馬鹿にし、調子を下げれば、どんなに当るか想像もつかないと思った。この「敵討記乎汝」が出版されれば、髪結床でも銭湯でも人の寄り場はどこへ行っても、この作の評判で持ちきりだろうと思うと六樹園は苦笑しながらもいい気もちだった。ことに敵うち物の不快な横行に対する腹いせの意味も偶して「敵討記乎汝」とやったところはわれながら上できだと思った。
六樹園は苦笑をふくみながらさっそく筆を下ろした。暢達《ちょうたつ》の文人だけに運筆は疾《はや》かった。ただ難かしくなるまいなるまいとたえず用心した。いかにして愚劣なものを書くべきかと努力した観があった。それはこういう思いきり洒落のめした物語であった。
名門好みの高慢な若い男があった。天下に名を轟かして味噌を上げたいと心がけたすえ、まず兵法を習ったが失敗して、書を学んで成らず、つぎに役者を志したはいいが、たった初日一日が一世一代の冷飯に終ったので、今度は男伊達《おとこだて》を真似たものの、似た山と嘲られて色事師に転じた。そして振られ抜いたあげく、これではならぬとやむをえず今度は一つ悪狐を退治して名を揚げようと野原へ出た。
そこで過って伯父の小
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