進、この加世を、この加世をそちに返すぞ!
郁之進 (顛倒して)ああ俺は、殿に刃向った。殿にお手傷を負わせ申した。この手で殿を斬った! なんという恐ろしい! うむ、そうだ、この上は――(刀を拾って)御免!
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どっかと坐り、手早く腹を寛《くつろ》げて突き立てようとする。
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播磨 (その手を抑さえて)早まるな、主君と家来ではない。人間と人間、男と男として、おれの言うことをひととおり聞いてくれ。この加世は、いまだに立派にそちの妻だぞ。側へ召し上げて以来、そちを想う加世の純情を見るにつけ、余は、自分の乱行に眼が覚めた――。
郁之進 えっ! (茫然たることしばし、ふたたび腹を切ろうとする)
播磨 (傷に苦しみながら、郁之進を制して)おれは加世によって、人間の美しい愛情を、はじめて見たぞ――今までの女は今まで余の手をつけたすべての女は、余を主君とのみ観て、みな絶対無条件に、死んだようになって余の意志に従った。が、おれは、男として、人間として、そのたましいの脱けた人形のような女たちには、飽き飽きしてしまったのだ――。
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郁之進と加世は、苦しげな播磨守のようすにおどろいて、あわてて左右から支える。
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播磨 ううむ、それで、それで、理不尽にも加世を奪り上げたのだが、彼女《かれ》は、いかにしても拒みとおすのみか、日夜良人を慕って泣く加世の純真な姿に、おれは、おれは、長らく求めてえなんだほんとうの女を見たのだ――加世だけはこのおれを、馬鹿大名と扱ってはくれなかった。憎むべき一個の男として、拒絶しとおしてくれたのだ。おれはそれが嬉しい。何よりもうれしい! おれはこれを探していた。おれの望んでいたものは、これだったのだ! どんなにそれを捜し求めたことか、おれのその味気ない胸中は、だ、誰も知らぬ。うむ、誰も知らぬ――加世の拒絶によって、おれは初めて男になった。加世はおれを、人間にしてくれたのだ。おれはもう馬鹿大名ではないぞ。郁之進と同じ人間だぞ、一人の男だぞ。それが郁之進と加世を争って、み、見事に負けたのだ。ははははは、ああ愉快だ、ああ愉快だ! 加世のおかげで、おれはやっと、この人間らしい、男らしい晴ればれとした気
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