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郁之進 (せせら笑って)それ見ろ。口を噤《つぐ》むよりしようがあるまい。長いものに捲かれろという言葉もある。いや、さような俗言を藉《か》らずとも、先は殿だ。何のおれに、恨みがましい気持ちがあってなるものか。そんな心は微塵《みじん》もないぞ。(言いきる)
池田 藩主と家臣――藩主は、欲しいものがあったら、家来から何を奪ってもいいものだろうか。新婚の夢|円《まど》らかな妻をさえも――こういう主従の制度は、いったい誰が決めたのだ。
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郁之進も森も、考えこむ。
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池田 要するに、扶持米《ふちまい》を貰って食わせてもらっておるから、頭をさげる。それだけのことじゃあないか。おれは、こういう世の中の仕組みは、遠からず瓦解《がかい》するものと思う。何かしら大きな変動が来るような気がしてならんのだ。いや、来べきだ。どことなく、そのにおいがする。
森 (恐しそうに)おれたち武士《さむらい》の先祖たちは、ほんとうに、主君に対して文字どおり絶対服従だったのだろうか。
池田 そりゃむろんそうだとも。おれたちもそれを教え込まれてきた。叩きこまれてきた――だが、おれは近ごろ、人間と人間とのそうした関係に、どうも疑いを持ちはじめてきたのだ。これでいいものかどうかと――。
森 主君の欲《ほっ》するところには、絶対に服従する。ふふうむ、絶対に、理も非もなく――。
池田 何らの大義名分がなくとも、腹を切れと言われれば、即座に腹を切る――切れるか貴公。森、貴様はどうだ。
森 うむ、切る――つもりで、今日まできたが、すこしどうも変だな。
池田 そちの妻を夜伽《よとぎ》に――と言われたら?
郁之進 (狂的に両手で耳を抑さえて)またそれをいう。またそれを言う。
森 そうだ! 長続きせんぞ、こういう君臣の関係は。
池田 おれたちは若いから、世の移り変りを早く予感できるのだ。いずれ、何かある、何か起るぞ、きっと――。
郁之進 (顔色を変えて)いや! そんな馬鹿なことがあるものか。君臣の義は大磐石だ。また永代大磐石にするのが、われわれのつとめなのだ。そんな怪《け》しからぬ疑念を持って、どうして御奉公がつとまる! 不届きなことを言うやつだ。
森 貴公ほんとうにそう思うのか。
郁之進 そう思うかとは情ない奴だ。そう思
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