安重根 殺そうと生かそうとおれの伊藤なんだ。おれがあいつを殺すと言い出した以上、今度は、助けるのもおれの権利にある。おれはあいつを生かしておこう! 殺すと同じ意味で助けるのだ!
[#ここから3字下げ]
言い終って禹徳淳を突き放し、身を翻して室外に出るや否、ドアを閉める。
[#ここで字下げ終わり]
[#改行天付き、折り返して1字下げ]
禹徳淳 (劉東夏へ)外套を取ってくれ! 外套のポケットにピストルがあるんだ。畜生! 射ち殺してやる。警察へ駈け込むかも知れないから、早く――。
[#ここから3字下げ]
劉東夏があわてて寝台に掛けてあった外套を持って来て渡す時、扉《ドア》がいっぱいにひらいて、警備中隊長オルダコフ大尉が、兵卒四五名と何食わぬ顔のヤアフネンコ、支那人ボウイを随えて厳然と立っている。
[#ここで字下げ終わり]
[#改行天付き、折り返して1字下げ]
大尉 (ヤアフネンコへ)飴屋というのはこいつらか。三人と聞いたが二人しかおらんじゃないか。(はいって来る)貴様ら朝鮮人だろう。出ることならん! 特別列車が通過するまで明日一日この部屋に禁足だ! 待て! 今、一応身体検査をする。
[#ここから3字下げ]
大尉の合図を受けて兵卒たちがのっそりとはいって来る。劉東夏はぼんやり立ち竦み、禹徳淳は驚愕して背ろへよろめく。
[#ここで字下げ終わり]

       13[#「13」は縦中横]

[#ここから3字下げ]
十月二十六日、朝。東清鉄道長春ハルビン間の特別列車、食堂車内。

金色燦然たる万国寝台車《ワゴンリイ》の貴賓食堂車内部。列車の振動で動揺している。正面一列の窓外は枯草の土手、ペンキ塗りの住宅、赤土の丘、牧場、松花江《スンガリイ》の水、踏切りなどのハルビン郊外。近景は汽車の後方に流れるように飛び去り、遠景は汽車について緩く大きく廻る。車内は椅子卓子を片付けてリセプション・ルウムのごとく準備してある。車輪とピストンの規則正しい轟音。車窓の外の明徹な日光に粉雪が踊っている。

伊藤公出迎えのため便乗せる東清鉄道民政部長アファナアシェフ少将、同営業部長ギンツェ、護境軍団代表ヒョウドロフ大佐、他二三の露国文武官。ハルビン総領事川上俊彦、日本人居留民会会長河井松之助、満鉄代理店日満商会主、他二三。日露人すべて礼装。

一同が下手の車扉に向って立ち、無言で慎ましやかに待っているところへ、満鉄総裁中村是公、同理事田中清次郎、同社員庄司鐘五郎を伴い、濃灰色《オックスフォード・グレイ》のモウニングに、金の飾りのついた握り太のステッキをついた伊藤公がドアに現れる。人々は静かに低頭する。伊藤公は庄司に扶けられて車室の中央に進む。その時葉巻用のパイプを取り落す。庄司が急いで拾って恭しく手に持っている。伊藤は葉巻を手に、にこやかに人々を見廻す。
[#ここで字下げ終わり]

[#改行天付き、折り返して1字下げ]
アファナアシェフ少将 (きらびやかな軍服。伊藤の前に進んで)公爵閣下には御疲労であらせられましょうが、到着前に一場のお慰みにもなりましょうし、またお見識りの栄を得たく、御出席を願いましたるところ、幸いに御快諾下さいまして、光栄に存じます。東清鉄道民政部のアファナアシェフと申します。(握手する)
伊藤 自分がこのたびハルビンを訪問致すのは、なんら政治外交上の意味があるのではなく、ただ新しい土地を観、天下の名士ココフツォフ氏その他に偶然会見するのを楽しみにして行くに過ぎませぬ。
[#ここから3字下げ]
庄司が背後から椅子を奨めるが伊藤は掛けない。
[#ここで字下げ終わり]
[#改行天付き、折り返して1字下げ]
伊藤 一度見ておきたいと思った満洲に、政務の余暇を利用し、皇帝陛下の御許可を得て視察の途に上ると、たまたま自分のかねて尊敬|措《お》く能わざる大政治家たる貴国大蔵大臣が、東洋へお出ましになるということで、途もさして遠くはなしお眼にかかりたいと思いついて何の計画するところもなく、いささか日露親和の緒にもならんかと思うて罷り出で、計らずもここに諸君にお眼にかかることのできたのは、余輩のまことに満足に思うところである。従来自分は、日露両国間にいっそう親密なる関係の進展する必要を感ずる、いたって切なるものでありますが、どうかこの親和の関係が、敬愛する諸君と同席の栄を得たるこの汽車の中に始まって、汽車の進むがごとく、ますます鞏固なる親交を助長するように期したいのである。諸君の健康を祝したいのでありまするが、朝であるから酒杯は略しましょう。
ギンツェ営業部長 (一揖《いちゆう》して)公爵閣下の仰せのとおり、いかなる障害、いかなる困難がありましても、吾人は決して、その困難、はたまた障害のために、両国の親交を損ずることはあるまいと信じます。
伊藤 (ちょっと鋭くギンツェを見て)これは珍しいお説である。(すこし不機嫌そうに)いや、障害、困難のごとき、余輩は老眼のせいか、さらにこれを認めませぬ。日露両国の関係は、この列車の疾走するがごとく、益ます前進しつつあるように見受けられる。(すぐ微笑して)|余は露人を愛す《ヤ・リュブリュウ・ルウスキフ》。(ギンツェと握手する)
[#ここから3字下げ]
伊藤はこの「ヤ・リュブリュウ・ルウスキフ」を棒読みに、不器用に繰り返しながら、順々に握手する。一同微笑する。
[#ここで字下げ終わり]

       14[#「14」は縦中横]

[#ここから3字下げ]
パントマイム

同日午前九時、ハルビン駅構内、一二等待合室。

正面中央に改札口ありて、ただちにプラットフォウムに続く。改札口を挟んで、左右は舞台横一面に、腰の低い硝子窓。下手奥、窓の下にストウブを囲んで卓子と椅子二三脚。混雑に備えて取り片づけて、広く空地を取ってある。壁には大時計、列車発着表、露語の広告等掛けあり。下手は食堂《バフェ》の売台、背後に酒壜の棚、菓子の皿などを飾り、上手は三等待合室に通じている。

正面の窓の外はプラットフォウム、窓硝子の上の方に向うの線路が見える。寒い朝で雪が積もり、細かい雪が小止みもなく、降りしきっている。

窓のすぐ外、改札口の右側に露国儀仗兵、左側に清国儀仗兵が、こっちに背中を向けて一列に並んでいるのが、硝子越しに見える。

舞台一ぱいの出迎人だが、この場は物音のみで、人はすべて無言である。礼装の群集がぎっしり詰まって動き廻っている。そこここに一団を作って談笑している。知った顔を見つけて遠くから呼ぶ。人を分けて挨拶に行く。肩を叩いて笑う。久濶を叙している。それらの談笑挨拶等、その意《こころ》で口が動くだけでいっさい発音しない。汽車を待つ間のあわただしい一刻。群集の跫音、煙草のけむり、声のないざわめき。

美々しい礼服の日清露の顕官が続々到着する。その中に露国蔵相ココフツォフの一行、東清鉄道副総裁ウェンツェリ、同鉄道長官ホルワット少将、交渉局長ダニエル、清国吉林外交部の大官、ハルビン市長ベルグなどがいる。ボンネットの夫人連も混っている。日本人側は居留民会役員、満鉄代理店日満商会員、各団体代表者、一般出迎人。及び各国領事団。

日本人が大部分である。将校マント、フロック、モウニング、シルクハット、明治四十二年の紳士。和服も多い。紋付袴に二重廻し、山高帽。婦人達もすべて明治の礼装だ。群集は縦横に揺れ動いて、口だけ動く無言の歓談が続く、特務将校ストラゾフと領事館付岡本警部が、駅員を指揮して整理に右往左往している。出迎人は、後からあとからと詰めかけて来る。写真班が名士の集団に八方からレンズを向ける。

やがて鈴《ベル》が鳴ると、ココフツォフを先頭に一同ぞろぞろと、改札口から舞台の、奥の雪で明るいプラットフォウムへ出て行く。遠くから汽車の音が近づいて来ている。群集は改札口を出て雪の中を左右のプラットフォウムに散る。汽車の音はだんだん近く大きくなる。出迎人はすっかり改札口を出て待合室は空になる。改札口には誰もいない。ただ一人、下手窓下の椅子に安重根が掛けている。今まで群集に紛れて観客の眼にとまらなかったのだ。卓子に片肘ついてぼんやりストウブに当っている。茶いろのルバシカ、同じ色の背広、大きな羊皮外套、円い運動帽子。何思うともなき顔。ただ右手を外套のポケットに深く突っ込んでいるのはピストルを握り締めているのだ。

誰もいない待合室だ。安重根は無心に、刻一刻近づいて来る汽車の音に、聞き入っている。長い間。轟音を立てて汽車がプラットフォウムに突入して来る。耳を聾する響き。窓硝子を撫でて沸く白い蒸気。プラットフォウムとすれずれに眼まぐるしく流れ去る巨大な車輪とピストンの動きが、窓の上方、人垣の脚を縫って一線に見える。幾輛か通り過ぎて速力は漸次に緩まり、音が次第に低くなって、停車する。正面、改札口向うに、飴色に塗った貴賓車が雪と湯気に濡れて静止している。号令の声が聞こえて、露支両国の儀仗兵が一斉に捧げ銃する。

同じに喨々たる奏楽の音が起って、しいんとなる。安重根は魅されたように起ち上る。右手をポケットに、微笑している。そのまま前へよろめく。だんだん急ぎ足に、改札口からプラットフォウムへ吸い込まれるようにはいって行く。
[#ここで字下げ終わり]



底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
   1970(昭和45)年1月15日初版発行
初出:「中央公論」中央公論社
   1931(昭和6)年4月
※林不忘名義の底本に収録されていますが、発表時の署名は谷譲次です。
※改行行頭の人名、及び「時。」「所。」「人。」は、底本では、ゴシックで組まれています。
※ト書きは、底本では、小さな文字で組まれています。
※「ボグラニチナヤ」と「ポグラニチナヤ」の混在は、底本通りにしました。
入力:奥村正明
校正:松永正敏
2003年8月20日作成
2008年9月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全12ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング