重根を抱き起している。
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安重根 (泪に濡れた笑顔)ははははは、大丈夫、起てるよ。(禹徳淳を認めて)おう! 徳淳――!
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よろめいて禹徳淳の手を握る。一同呆然と見守っている。
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安重根 (力強く)夜が明けたな。(裏口のそとに空が白んで、暁の色が流れ込んでいる)汽車の時間は、調べてあるのか。
禹徳淳 (手を握り返して急《せ》き込む)行ってくれるか。ハルビンへ行ってくれるか。
安重根 (哄笑)はっはっは、心配するな。(柳麗玉に支えられながら)旅費はあるぞ旅費は。はっはっは、たんまりあるぞ。
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黄瑞露は裏口の人を追って戸を閉めている。
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10[#「10」は縦中横]
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ポグラニチナヤの裏町、不潔な洋風街路、劉任瞻韓薬房前。
十月十九日、夕ぐれ。
「韓国調剤学士劉任瞻薬房」と看板を掲げた、古びた間口の狭い店。草根木皮の類が軒下に下がって、硝子壜にはいった木の実、蛇の酒精漬けなど店頭《みせ》の戸外《そと》に並んでいる。左右は古着屋、乾物商などすべて朝鮮人相手の小商店。荷車、自転車など置いてあって雑然としている。低い家並みの向うは連山と、市街の屋根の重なる上に白い夕月。教会の尖塔がくっきり見えて、凹凸の石畳の下手に電柱が一本よろけている。
劉任瞻――医師兼薬剤師。老人、ロシアの農民風の服装。
劉東夏――その息子。十八歳。ルバシカに露兵の軍帽をかぶっている。
安重根、禹徳淳、柳麗玉、隣家の古着屋の老婆、ロシア人、支那人、朝鮮人等の男女の通行人。
夕闇の迫る騒がしい往来。店の前の椅子に劉任瞻が腰かけて、小笊《こざる》[#「小笊《こざる》」は底本では「小※[#「竹かんむり/瓜」、314−上−1]《こざる》」]に盛った穀物を両手に揉んでは、笊を揺すって籾殻《もみがら》を吹いている。ロシア人の裸足の子供の一隊、市場へ買出しに行った朝鮮人の女房二三、工場帰りの支那人職工の群などあわただしく通る。劉任瞻に挨拶して行く者もある。ロシア人の巡邏が長剣を鳴らして通り過ぎる。手風琴に合わして朝鮮唄の哀調が漂って来る。隣家の古着屋の老婆が、洋燈《ランプ》のほや[#「ほや」に傍点]を掃除しながら、店先いっぱいに古着の下がった間から顔を出す。
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老婆 劉さんかね。もうランプを点《つ》けなさいよ。東夏さんはいないのかえ。
劉任瞻 馬鹿な野郎だ。先刻まだ早いうちに、また独立党の会があるとか言ってな、出かけて行ったきり帰らないのだ。帰って来たらどなりつけてやろうと思って、ここに出張って待っているのさ。
老婆 おや、それじゃあきっと自家《うち》の若い人たちと一緒ですよ。安重根とかいう人が来たと言って、商売をおっぽり出して駈け出して行きましたから。
劉任瞻 困ったものだ。わしはいつも東夏に言って聞かせているのだが、職業や勉強を蔑《ないがしろ》にして何が国家だ。何が社会だ。独立が聞いて呆れる。ちっとやそっとの人間が騒いだところで、世の中はどう変るものでもないのだよ。長い間生きて来て、わしや古着屋のお婆さんが一番よく知っているはずだ。なあ、お婆さん。
老婆 そうですともさ。
劉任瞻 世の中は理窟ではない。いや、たった一つ理窟があるとすれば、それは、強い者が勝ち、弱いものが負けるという理窟だけだ。強い者は勝って得をし、弱いやつは負けて損をする。しかし、その強い者もいつまでも強いというわけではなし、弱いものもやがては強くなる時があろう。上が下になり、下が上になるのだ。こうして世の中は、大きく浪を打って進んで行くので、百万陀羅議論を唱えても、どうなるというものではない。待つのだ。強い者が弱くなり、弱い者が強くなる時を待つのだ。ははははは、じっと待つのだよ。待ちさえすれば、その時機は必ず来る――。
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反対隣りの乾物屋に灯が点く。手風琴と唄声は消えようとして続いている。間。
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老婆 そんなものでしょうねえ、ほんとに。(下手を見て)おや、誰か来ましたよ。うちの人たちかもしれない。どれ、ランプに灯を入れておこう。
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と古着屋に入る。
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劉任瞻 東は東、西は西。若い者は若い者、年寄りは年寄りだ。
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劉任瞻は穀物の笊を片附け、椅子を引きずって家へはいる。すぐその店と古着屋から灯りがさす。街路に光りが倒れて、もうすっ
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