っとことばが切れると、気がつく先にお蔦は、他の二人といっしょに、軽く頭を下げて、同意の意を表わしていた。
机の向こうで白い袋を中心に、しばらく相談があった後、内藤伊織の声で、
「日本橋浮世小路、いろは寿司方――いろは屋文次、此奴《こやつ》ですな。今夜は一つここへ向けましょう」
と、いうと、白い袋がうなずくのを待って、伊織は三人へ向き直って続ける。
「俺らは、手前《てめえ》らの正体なんか知りたくもねえが、その風態《なり》では、いくら夜中でも、江戸の町あ歩けねえから、いいか、ここを出たら庭で三人いっしょに袋を脱いで、桜の木へ掛けて行くんだ。
――行く先は今いったすしや。今夜は、盗って来る物は何もねえ。人間一匹の命だけだ。いろは屋文次という、此奴は岡っ引きだが、こうるせえ野郎でな。いつぞやの晩は、俺と、ここにいるもう一人が、すんでのことで、からめられる所だった。まあ、その返報ってわけでもねえが、あんな野郎を生かしといちゃあ、この先どんな邪魔をするかしれやしねえ。
で、これから、手前たち三人が出かけて行って、そのいろは屋を殺《ばら》すんだが、必ず首を持って来いよ。わかったら早いがいい。さっそく出かけろ」
と、他の一人に合図をすると、そいつが先に立って歩き出す。お蔦を始め三つの袋がそれに続いたとき、うしろで、
「御苦労だな。ぬからずやって来てくれ」
と、いう饗庭の声がした。
部屋を出ると長い廊下。角に金網行燈《かなあみあんどん》が一つ、ぼんやりとあたりを照らしているほか、人気のない饗庭家の裏、すなわち空家の影屋敷である。
黒い袋をかぶった帝釈丹三に連れられた三人が、押し出されるように影屋敷の裏木戸を出ると、月のない外は墨を流したように暗い。
「庭の桜の木へ袋を脱いで掛けて行け」
といった伊織のことばを思い出して、三人は立ち止まって袋を脱いだ。三つをまとめて、その庭の桜の下枝へ掛ける。
いかに暗い夜でも空には明りがある。それでお蔦の姿を見て驚いたものか、今、袋を脱いだ一人が叫んだ。
「やや女ではないか」
いわれてお蔦、暗黒を透かして見ると、守人を恋する前、両国に世帯をもって、子までなしたことのある水戸浪人の遊佐銀二郎!
「お! あなたは!」
「や! そちはお蔦。――」
かけ寄ろうとすると、もう一人の男が、あいだに立った。
「よう! はいるもいっしょなら、出るもいっしょか。不思議な御縁だね」
手枕舎里好である。
流れゆく世の力
障子に映る日ざしが、だんだん薄くなって、軒の影がはっ[#「はっ」に傍点]と思うまに、もう驚くほど下がっている。
早い落日だ。
蒲団《ふとん》から顔を出して、守人は障子の影を見ながら、外部の世界を想像している。下駄《げた》の音や人声が寝ている下の横町を流れて行って、車の音や、女たちの声、さすがに親しい下町の夕ぐれである。寝ている身にとって、音が何を意味し、音だけですべての動きが察しられるのが、守人には涙ぐましくまたほほえみたい気持ちだった。
こうしているまも、同志たちは、本所割り下水の方来居に老主玄鶯院を囲んで大老要撃の画策を進めていることであろう――消息を絶ったあの女、惜しいところを逃がした遊佐銀二郎――あれからのこと、今後のこと、思えば一つとして気にならざるはない。
が、人にきいても何も話してはくれない。文次も安兵衛も笑っているばかりで、何一つ、教えてくれようとはしないのだ。――。
守人が障子の桟《さん》をはう隣の物干竿《ものほしざお》の影を、ぼんやりと見ていると、とんとん[#「とんとん」に傍点]と梯子段を踏み上がって来る足音。
がらり[#「がらり」に傍点]襖《ふすま》があくと、いろは屋文次だ。
「どうですい。お茶がはいりましたが」
自ら茶盆を持って来てすすめてくれる。守人は床の上へ起き上がって顔をしかめた。動くとまだ肩口の傷がいたむのだ。
「まだ傷が痛みますか」
「なに、大したこともござらぬ。重々のお心尽くしかたじけのうござる」
ぽつり[#「ぽつり」に傍点]と切るようにいって二人は無言、文次の茶をすする音がのどかに聞こえた。
――あの夜。
卑怯な遊佐銀二郎のために、肩へ斬り附けられた守人は、安兵衛に助けられて、銀二郎が影屋敷へはいって行った後、文次の心尽くしで、この日本橋浮世小路の文次の家、いろは寿司の二階へかつぎ込まれたのだった。
同時に心をこめた文次の介抱が始まった。近所の外科医が招かれて、金創《きんそう》の手当てをする。食事から寝起き、文次の親切は親身も及ばないほどだった。若くして巷《ちまた》に浪々する篁守人、人の情けに泣かされたのはこのときだった。
「彼奴《あいつ》あ死に花を使う帳本人なんだ。今までだって、お役人を始め公儀の肩を持つ方々、町方の岡
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