頬ずりをして、そのまま家へはいって行った。
 あとには篁守人が、ひとりつくねんと燃えしぶる枯れ葉をみつめて考えている。
 寝食を廃して国事に奔走する。なるほど雄々《おお》しい美しい名には違いないが、それがややともするとうつろな人間の、しかもほん[#「ほん」に傍点]の上っ面に過ぎないような気がしてならない。さればといってどうすればいいか。
 自分一個の道――こう押し詰めて来ると、そこに忽然《こつねん》と浮かび出るあの女《ひと》の幻。
 守人はそれを打ち消すように、たき火へ風を入れた。勢いを得た焔《ほのお》とともに、自責《せめ》と羞恥《はじらい》が紅潮《べに》となってかれの頬をいろどる。
 俺はこのごろ、全くどうかしているかもしれない。今まで考えなかったことを考えるようになったが、その機縁も俺にだけはわかっている。しかし、ここまで来たのだ。
 もう引っ返すことはできない――この若い浪人、何か事を進めているものとみえる。
「そうだ、やるところまではやろう」
 がしかし、ぬぐい切れないで残っているこのわびしさを何とする?
 このうつろな心をどこへやろう?
 江戸へ出て数年、陋巷《ろうこう》にうずもれているあいだに、少壮《しょうそう》の剣客篁守人もこうまで弱気になったのか。
 病後のせいもあろうが、彼は近ごろ、毎夜のように故郷の夢をみるのだ。眠りに入るとすぐ、満山の緑|清冽《せいれつ》な小川の縁を、酔っぴて幼児《おさなご》となって駈けまわるのである。
 くすぶる火を前に、いつまでもいつまでも守人は庭にたたずんでいた。夕ぐれがはい寄るのも知らずに。
 凝った普請《ふしん》だが住み荒らした庵のうち、方来居と書いた藤田東湖《ふじたとうこ》の扁額《へんがく》の下で、玄鶯院がお盆をかむって新太郎をあやしている。
 ひところ、匙《さじ》一本で千代田の大奥に伺候したことさえあるので、いまだに相良玄鶯院と御典医名で呼ばれている名だたる蘭医《らんい》、野に下ってもその学識風格はこわ面《もて》の浪士たちを顎《あご》の先でこき使って、さて、何をどうしようというのでもない。
 足らないがちのなかに食客《いそうろう》を置いて、こうのんこのしゃあ[#「のんこのしゃあ」に傍点]と日を送っているのだから、確かに変物は変物だ。
 食客というと、この新太郎も怪しくなる。独身《ひとりみ》の謹直家だからもちろん実子
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