、幕府の大老として今や飛ぶ鳥を落とす井伊掃部頭直弼だ。
 大股《おおまた》に、といいたいが、小柄でせっかち[#「せっかち」に傍点]だからちょこちょこと出て来て、足で蒲団を直してちょこなんとすわった。
「よい、よい。往け、ゆけ。あっちへ、あっちへ、あっちへ往け」
 いらいらして御近習《ごきんじゅう》にいっている。
 脂肪肥《あぶらぶと》りのしたからだのうちに、四角なだだ[#「だだ」に傍点]っ広い顔が載っかって、細い眼がつり上がっている。あまりいい御面相ではない。
 家来が引っ込んで行くと、
「面《おもて》を上げい」
 というお声がかりだ。どことなくがさがさ[#「がさがさ」に傍点]して、構えていないだけに、邦之助なぞにも話しがしやすい。わりに気軽にことばが出て、すぐにこのころの江戸の民状へ話題が向いた。
 が、貫目《かんめ》というものは争われない。会ったらこうもいおう、あれをああ述べてこっちの才に驚かしてやろう、なんかと考えて来たことはすっかりどこかへ消し飛んでしまって、邦之助、きかれた答えを歯から先へ押し出すだけで精一杯だ。
「死に花とか申したな、皮膚《はだ》に根をおろして人を殺《あや》める花、あの件はどうなった? やはり刺客の業か」
 ずけずけと持ち出してくる。邦之助はまごついた。
「さように存ぜられまする。これにつきましては手前方出入りの下賤の者に申し付けまして、着々探索の歩を進めておりまするが、何を申しますにも、その植物なるものが――」
「うむ。その探索方に当たりおる者は何と申す?」
「は、いえ、お耳に入れる名もない下素《げす》な者にござります」
「たわけめ! 名のない者があるか」
「恐れ入りましてございます。いろは屋文次と申しまして、御用の走り使いを勤むる町人にござりまする」
「いろは屋文次! 侠気《おとこぎ》めいた殊勝な名じゃ。さだめてやりおることであろう。そちから厚くねぎらって取らせい」
「はっ。ありがたきしあわせに存じまする」
「うむ。で、下手人と申すか、つまりその、花を使う者だな。これという見込みでもついたか」
「それがでござります。まことに申しわけございませぬがその毒草」
「毒草?」
「は。毒草ということだけは判明致しましたが、それ以外はいっさい――」
「いまだもって密雲の底に包まれておるという仕儀か」
「おことばのとおりにございます」
「自慢にもな
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