がんでいた。あの顔だった。岩井半三郎だった。
はっとすると同時に、もうお久美は、そのものに手を取られて、雨のなかを歩き出していた。揺れる闇黒の奥へ、消えた。追って出たおひさの見たのは、雨に光って吸われて行くお久美の白い足だけだった。
暴風雨は、来るのも早かったが、去るのも早かった。夜あけになって、月だった。お久美が、大雨の最中出て行ったきり帰らないので、おひさの家をはじめ、谷由浜《やゆはま》の村は、騒ぎになっていた。漁師たちが出て、月光を頼りに、足あとをさがして歩いた。男と女と、ふたりの足跡が、おひさの家から丘をのぼって、断崖のうえの野を、縺れながら突き切って、小山から松原を抜けて、そこで絶えていた。その先の、きのうまで無住|寺《でら》の墓場のあった個所は、ゆうべの暴風雨で崖が崩れて、はるか眼下の浪うちぎわに、大きな土砂のかたまりが、濃い液体のように食《は》み出ていた。寺も墓も、あと形もなかった。
「むかし江戸で売った岩井半三郎さまは、この村の出だったが、あの人の墓も、これでなくなった。惜しいことをした。」
捜査隊の一人が言った。かれは、選ばれて、その場から江戸の上庄への急使に発った。
底本:「一人三人全集2[#「2」はローマ数字、1−13−22]時代小説丹下左膳」河出書房新社
1970(昭和45)年4月15日初版発行
入力:大野晋
校正:松永正敏
2005年5月7日作成
2008年3月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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