、「おうむせきえぞうしばんづけ」と、呼び売りして歩く習慣だった。役者の絵に、その狂言の台詞《せりふ》が書き抜いてあって、声色《こわいろ》の好きな人の便宜にそなえてあった。諸国の名所に、山彦を伝える鸚鵡石というのがあって、鸚鵡が声を返すように聞こえるところから、そう呼んでいたが、この絵草紙は声色の具だというので、その石に因《ちな》んで誰となく名づけたのだった。たいがい紙五杖ぐらいのもので、はじめの片面に、名ある浮世絵師が淡彩で俳優の肖像《にがお》を描き、版摺りも、かなり精巧なものがすくなくなかった。
上庄は、芝居絵が好きで、ことにこのおうむ石をあつめることは、かれの唯一の趣味だった。
自然、お久美も、そういったほうの絵を、よく見ていた。
三
「伏見屋へも、しばらく足が遠いな。」
ふところに、団扇の風を送って、庄吉がいった。
「御無沙汰つづきで、敷居が高うござんしょう、ほほほ。」
「まあ、そういったところだ。残念だが、まだ当分、抜けられそうもない。第一、この暑さでは、いくら好きな道でも、絵なんぞ見に出かける気にはなれませんよ。お前、かわりに見ておいで。」
「ええ、そのうち。」
お久美が、気がなさそうに答えると、
「それがいい。気散じに、兼でも伴れて行ってきなさい。面白いものがあったら、もらって来るがいい。」
と、庄吉は、急に思い出したように、
「おお坊主どもは?」
「やっと昼寝して、ほっとしているところでござんす。」
「おおかた、悪戯の夢でも見ていることだろう。」
夢、という忘れていたことばが、かすかにお久美の顔いろをかえた。庄吉は気がつかずに、
「どれ、一仕事。」
立って行った。
瞬間、呼びとめて、朝からあんなにこころを圧して来た夢のことを、話そうかとも思ったが、笑われるだけにきまっているので、あなた、と出かかった声を呑んで、
「まあ、お気の早い。お召更えなすったら。」
「いいやな。またすぐ汗になるんだ。」
はなして、慰められたところで、何のたしにもなるのでなかった。ことに、夢で誰かが待っているような気がする。庄吉の愛に冷水を落すようで、そこまではいえないのだった。やはり黙って、そして、できるだけ考えずにいたほうがいい。かの女は、この会体の知れない恐怖感に、しっぽり全身を漬けて、それをじぶんだけのものとして酔い痴れていたい気もちもあった。
その夜お久美は、何度も手を伸ばして、庄吉のたくましい腕や肩に触ってみながら、眠った。
夢は、すぐに来た。
かの女は、海岸の崖に、風に吹かれて立っていた。引き潮だった。夜にかわろうとする薄明のなかで、いつもは水に覆われている砂地が、遠くまで銀いろに光っていた。海草や、不思議な海の小動物が、そこここに、花のような毒々しい色だった。こういう現象は初めてだったが、いつもの場処であることに変りはなかった。地上に載った寺の屋根の片側に、宵が濃くなりつつあった。草も、墓石も、呼吸づいて、しいんとしていた。立樹の背景には、白い空が沈もうとしていた。磯松の列が、一方だけ手をひろげて、その下に、いま来た小みちが、ほのかだった。お久美は、一瞥にそれらをおさめて、やっぱり来てしまったという気がした。そして、十何年もそこに自分を待ってきた人を待つこころで、草のなかにしゃがんで、海を眺め出した。予期した恐怖も、湧いてこないで、何だか、ひどく事務的な気もちだった。いまに、何かが出て来る。とうとう現れる。ただ、しきりにそう告げるものがあった。少女のころから、そして昨夜も、かの女は、その男が姿をあらわすのを待たずに、※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]き足掻《あが》いて夢から逃れたのだったが、今夜は、今夜も、駈け去りたい気が強いのだけれど、足が鉄のように砂にめり[#「めり」に傍点]こんで、動かないのだった。それが、かの女には、奇体《きたい》に快くもあった。それでも、二、三度首をまげて、うしろを見たりした。山の側には、もうすっかり夜が這って、海にだけうすい白光が揺らいでいた。
官能が、お久美を捉えかけていた。それは、こんなはずはないが、と、恥かしさのなかでかの女を怒らせたほど意外にも性的なものだった。お久美は、はっとした。襲って来る情感に抵抗して起ち上ろうとしたとき、眼の前に男の顔があるのを見た。男も、うずくまっているらしく、顔は、かの女の顔と水平のところにあった。はじめて見る顔だった。くっきりした輪廓だった。うすく緑を帯びた、すき透るような皮膚に、白い額部が、冷びえと冴えていた。おっとりと笑いをふくんだ、切れ長の眼だった。まじまじとかの女を見つめていた。女のような、形のいい小さな頤《あご》を、引き気味にしていた。ぞっとするほど通った、高い鼻だった。おちょぼ口が、いまにも噴飯《ふきだ》しそうに歪んでいた。自分の生れるまえから相識《しりあい》のような、なつかしいものに思われる顔だった。痩形の若い男だった。
お久美は、じっとしていた。ほほえみ返していた。その男の呼吸《いき》を頬に感じた。口びるを、口びるに感じた。恐しい気もちはなかった。これが不義というものなのか、と、噛みしめるように味わって、感覚の通り過ぎるのを待っていた。が、急にかの女は、これはいけない、こういうことはあるべきではない、と強い意識が働き出して、たましいとからだの全力を絞って男の抱擁から逃れようともがいた。男の胸に両手を突っ張って、離れるが早いか、薮といわず、石原といわず、大声に叫んで走り出した。暗いむこうに明りが見えて来て、じぶんを呼ぶ声が耳のそばでした。
「どうした。」
暑いので、開け放した縁からの月光に、蚊帳《かや》が揺れていた。お久美のうえに、庄吉の顔が大きくひろがっていた。
「あの人、あの人がまた来たんです。」
庄吉は、部屋のあちこちへ眼を走らせた。
「あの人? 誰も来やしないよ。」
「夢なんです。」微笑して、「何刻《なんどき》でござんしょう。」
「何どきにも何にも、いま寝たばかりだ。お前は、枕に頭をつけたかと思うと、すぐうなされ出したのだよ。」
「嫌な夢。あの人は、これからまた毎晩のように来るでしょうよ。」
庄吉の表情に、嫉妬に似た、真剣なものが来た。
「話してごらん。」
眠りから覚めたばかりの半意識のうちに、何をいったか、お久美は気がついた。
「何でもございません。ばかばかしい夢。」
深い眼をしてお久美を見つめたきりで、庄吉は、追究しようとしなかった。
枕をならべて眠《ね》ている子供たちをみてやったのち、お久美は黙って、また寝《しん》に就いた。
四
つぎの朝、蒼い顔で起き出たお久美は、庄吉がおもての店へ出て行ったあと、きのうのように、自分とじぶんに対坐するような心もちで、茶の間にすわった。
かの女は、庄吉のまえに、拭い切れない罪を犯したような気がして、じぶんが、自分のからだが、不潔なものに思えてならなかった。庄吉も、なんとなくあの夢を感づいて、ゆうべから、急に夫婦の間に溝ができたのではなかろうか。不安と憂鬱が、鞭のようにかの女を打ちのめしていた。自分の識らないうちに、恥ずべき大きな秘密を背負わされているといった感じだった。お久美は、その不当さに腹が立った。同時に夢の美男の顔が、身も世もなく慕わしいものとして、ふっとあたまの隅に萌《きざ》したりもするのだった。かの女は、自分の異常な恐怖観念以外、何も怖れる理由のないことをおそれているのだと、じぶんに言い聞かせた。あの顔の現れたのは、昨夜がはじめてだったが、あれは、こどもの時分から、あらわれようとして現れないで来た顔だった。見ないでも、よく知っている顔なような気がした。よしこれから何度出て来ようとも、それがこのじぶんの実生活のうえに何の関係があるのだと考えてみた。かの女に、みだらないたずら心のないことは、かの女自身が一番よく知っているのだった。それさえはっきりしていれば、何も怖がることはないのだった。あとは夢の見識らぬ男が来て、かの女の感覚を弄ぶなどと、それは、かの女の知ったことではないはずだった。良人の愛に守られ、富に護られ、子供の愛に生きているお久美だった。少女のころの夢が返ってきたからといって、それが何の重大さを意味し得ようとそうじぶんを叱る一方、かの女は、気を詰めてゆうべの男を想い出して、かれによってそそられた情感の甘さを、くり返しくりかえし味わうように、こころに転《ころ》がしていた。夢は、お久美にとって、もう夢ではなかった。第二の、そして、より現実な現実だった。
「こどもの時も、夢に、あの顔を見たことはなかったかしら。何だか、見たおぼえがあるような気もする。お久美ちゃんがもっと大きくなったら呼びに行く、そういった声も、聞いたことがあったっけ。」
十年のあいだに、山と海の模様に、自然の変化が見られた。男の顔も、老けたように思われた。そして、自分は、妻となり、母となり、立派におとなになったので、約束どおり迎えに来たのだろうか。いくら考えても、同じことだった。考えるということは、その望ましくない夢の印象をいっそう深くして、くる夜も来る夜もそれに悩まされなければならないという恐れを抱くだけだった。
からりと、煙管を捨てて、お久美は、起ち上った。
手を叩いた。
「兼や、あの、ちょっと出かけますからね。」
戸外は、日光が白かった。馬鹿ばかしい夢などとは無関係に、人が、いそがしく往来していた。お久美は、べつの世界へ来たような気がして、今までの恐怖が、暗い、愚劣な穴ぐらのように、微笑をもってかえり見られた。
幻影なぞといったものを踏み散らす気もちで、晴ればれとしっかりした足どりで歩いて行った。
横町のむこうに、炎天の下の不忍の池が、眼に痛いほど強く光っていたりした。気に入りの女中のお兼が、下駄を鳴らしてつづきながら、何かしきりにおどけたことをしゃべっていた。
お久美は、きのうの良人との会話《はなし》を思い出して、足が自然に、池之端仲町の伏見屋へ向くに任せていた。好きな芝居の絵でも見たら、こころもちがぱっとするだろうというのだった。
番頭や主人にとび出されて、挨拶したり、ちやほやされたりしたくなかった。それには、都合よく、伏見屋は混んでいた。いろいろな俳優《やくしゃ》や美人の似顔や、なまめかしい女の立ち姿などが、店いっぱいの壁に掛ったり、ひろげられたり、つみ上げられたりしていた。桐の箱にはいって、高く重なっているのもあった。畳紙に挟んだのを、小僧がうやうやしく取り出して来て、客に見せていた。一隅では、勤番者らしい侍が二、三人、江戸の土産《みやげ》にというのであろう。美人画を選りながら、ひとりが低声に卑猥なことでもいっているとみえて、崩れるような笑い声を立てていた。名所図絵を繰って、もっともらしく首を捻っている隠居風の老人もあった。お店者《たなもの》ていのが、わらい絵らしいのを手早く買って、逃げるように出て行くところだった。
さむらいたちが、はいってきたお久美へ、いっせいに眼を向けたので、かの女は、江戸の女の誇りを傷つけられたように、すこしつんとして、横の壁に眼をやった。絵は、そこにかかっていたのだった。
ぼんやり見つめて、その絵と、向かいあって立っていた。
心臓が跳び上って来て、咽喉をふさぐ気もちだった。血がたしかに一時とまった。そしてすぐ、はげしく騒ぎ出した。心理的な嘔気が、お久美に突きあげてきた。かの女の見ているものは、あの男の肖象だった。
くっきりした輪廓だった。うすく緑を帯びた、すき透るような皮膚に、白い額部が、冷えびえと冴えて見えていた。おっとりと笑いをふくんだ切れ長の眼が、気のせいか、絵からまじまじとかの女を見返していた。女のような、形のいい小さな頤を引き気味に、ぞっとするほど通った高い鼻だった。絵でも、見ようによっては、おちょぼ口が、いまにも噴飯《ふきだ》しそうに歪んでいた。夢と同じに、お久美にとって、生れるまえから相識のような、たまらなくなつかしいものに思われてならない
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