っている。見るとその片手にはきらりと閃く物を持っている。あっと思う間に、要之助が、彼の側によって来た。次の瞬間に要之助の顔が、映画の大写しのように彼の顔の前に迫った。
とたんに彼は咽喉の所にひやりと冷い物がふれたと感じた。彼は叫ぼうとした。夢ではない!とぴりっとした刹那、たとえようのない焼けるような痛みを咽喉のまわりに感じると同時に、藤次郎の意識は永遠に失われてしまったのである。
要之助は其の夜のうちに捕縛された。
彼は然し警察官に対して、全然自分には藤次郎を殺したおぼえはないと主張した。
検事の前に於いても無論その主張を維持した。彼は、若し彼が藤次郎を殺したとすればそれは全く睡眠中の行動である。自分は今まで夢遊病の発作に屡々おそわれたことがある。殊に国にいた頃には、父親の頭をまきざっ棒で殴りつけたこともあったと述べた。
N亭の主人は其の主張を裏書きした。
用いた短刀と傍にあった文鎮とは、然し、N亭の主人の知らぬ物であった。のみならず斯る危険な物はあの部屋にはなかったと思う、と主人は述べた。
けれども、浅草の商人達は要之助にとって幸にも売った相手をおぼえていた。短刀も文鎮も其の前夜、要之助と一緒に来た男に売ったことをはっきりと述べた。そうして被害者の写真を見るに及んで二人の商人は買手を確認した。
兇器の出所《でどころ》、買手、及びそれがその場に在った理由は明かにされた。
要之助が、被害者とその前夜映画を見たことは、要之助の詳しい陳述其の他プロ等によって認められた。而も十分に殺伐な映画を見たことが明かになった。要之助は、藤次郎がもしその予定の犯罪を行《や》ったならば述べたであろう位に、詳細にその夜見た映画について陳述をなしたのであった。
無論、彼の犯行当時の精神状態は専門家の鑑定に附せられた。その結果は要之助の陳述の通り、彼の殺人は全く無意識行動なることを推定せらるるに至った。
予審判事は事件を公判に移すべきものにあらずと認めた。要之助は遂に釈放せられたのである。
事件はただ之だけである。
然し、果して要之助は夢遊病の発作で藤次郎を殺したのであろうか。それ以外には考えることは出来ぬだろうか。
鑑定は無論慎重にされたであろう。
けれどそれは絶対に真実を掴み得るものだろうか。誤ることはないだろうか。
又、仮りに之を殺人事件とすると、検事も判事も、その動機を説明することが非常に困難だったに違いない。彼等は法律家であり司直の職に在るが故に、此の場合、殺人の動機を求めて而して説明しなければならない。
× × × ×
医者でもなく、又法律家でもない人々は、必ずしも此の鑑定を絶対に信頼する必要もなく、又動機を確実に証明する必要もない。
要之助は全く睡眠中に藤次郎を殺したのだろうか。
彼に、殺人の動機は認められないだろうか。例えば、仮りに要之助が……いや、之以上は読者の自由な想像に任せておく方が正しいかも知れない。
[#地付きで](〈新青年〉昭和四年十月号発表)
底本:「日本探偵小説全集5 浜尾四郎集」創元推理文庫、東京創元社
1985(昭和60)年3月29日初版
1997(平成9)年7月11日5刷
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:はやしだかずこ
2001年2月26日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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