た。
何も知らずに先に立って歩いていた吉田が楽しげに口ぶえを吹き出した。それこそ彼が綾子とよくひく「春のソナタ」のヴァイオリンパートの一節だった。
之を耳にした刹那、中条は身慄いした。
彼はいきなり吉田の後に身を引き付けた。……
吉田がT海岸から誤って落ちて頭を粉砕されて即死したという急報が四方にとんだのはそれから間もなくだった。警察からは直ちに係官が出張した。東京から家族の者もかけつけた。
けれどもそこには何ら他殺の疑いをかけるべき点もなく又自殺と見られる所もなかった。中条直一が相当地位ある某省役人であることが凡ての嫌疑から彼を救った。
かくして吉田豊は、前途有為の身を以て、T海岸で不慮の過失死をとげたということが一般に報ぜられたのである。
二
中条直一は然し其の後、だんだん憂鬱になって行った。そうしてその秋には極度の神経衰弱にかかって、当分役所を休まなければならなくなった。
同じ家に居ながら彼は、綾子とは一日中一言も口をきかぬことすら多くなった。
綾子は綾子でピアノを盛んに独りで弾じた。而も相手がないのに、ヴァイオリンやヴァイオリンコンツェルトのピアノのパートを、やけに弾ずることが多かった。
彼女のこの振まいは、必ずしも夫に対するあてつけばかりではなかったらしい。
こんな時に、夫の直一はますます陰気になって行った。
ついに、医者の注意によって毎朝ある一定の時間を散歩に費やさなければならないと云うことになって、永田町の自宅から徒歩で日比谷公園を一周して来ることにした。それは十二月頃のことである。
年があけて、再び夏が来た。吉田の死んだ月が又来た。丁度、その月だった。中条直一は突然思いがけない禍に出会った。
彼は自動車に轢《ひ》き殺されたのである。
或る朝、身なりのいやしくない紳士体の男が、西日比谷検事局にあわててとび込んで来た。人を轢いた。いやあの男が自分の車で自殺したというのだ。
居合わせたH署の巡査が早速行って見ると、公園の検事局に相対している入口から約五十間ばかり中に行った道路に、おびただしい血汐を流してこれも一見紳士風の男が自動車に頭を轢かれて即死して居る。自動車は反対の帝国ホテル側の入口から左側を通行して来たらしく、西側に車首を向けて止って居る。
「運転手はどこに居るのか」
と聞かれて、とび込んで
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