質の男は時とすると犯罪に対しては、非常に勇敢になるものだからである。
中条と雖も音楽は嫌いではなかった。はじめのうちは二人の演奏にひたることも出来た。
けれども最近に至っては、彼は全く不快な気持で二人を客間に残して自分の部屋にもどるのが常となった。
彼がいなくなると彼等は一層仲よく弾いてるような気がした。
いや、楽器をおいて、笑いさざめく声がよく聞えた。そうして弾きはじめると音楽は一層幸福そうにひびいて来た。
彼は、「春のソナタ」を書斎の中でききながら幾度歯を食いしばったことだろう。
彼は舌打をしながら、ベートホーヴェンを呪った。それ程、二人のすきな曲は、この奏鳴曲だったのである。
一方吉田は遠慮なく綾子を音楽会にさそいに来る。妻は平気で一緒に行く。そうして夜おそくなって帰って来る。
「一体今までどこで何して来たのだ」
「だからS氏のコンサートって申し上げたでしょう。マーラーのシンフォニーって素的ね。何だかむずかしくって判らないけれど」
「何を云ってやがるんだ」と彼は心で思った。
「おそくなって申訳がございません位のことを云ったらよかろう」
斯う思ってももう口にさえ出し得ない男だった。
吉田と妻が人目を憚らずに出歩くことは考えても堪らないことだったが、しかし、彼は之に口をださなかった。
綾子に対しても吉田に対しても、一言も注意すらしなかった。
云ったら綾子は軽蔑の笑いで一蹴するだろう。子供とはいかぬ迄もまるで年下の吉田に云うことはなお更はずかしいことだった。
斯うやって悶えの幾月かが経ったが、結局中条直一は吉田の存在を呪うより外仕方がなかったのである。吉田の存在と、ピアノの存在と、ヴァイオリンと而して彼等が好んで合わせる「春のソナタ」と、そうしてその作曲者とを、凡てを彼は呪った。
然し妻と吉田の間に就いて何らの確証を握っているわけではなかった。が、何らの証拠がないということは中条のような男にとっては証拠があるのと全く変らなかった。吉田の存在が呪わしいのは同じだった。
春が去って夏が来た。どうしても此のままでは堪らないと感じた彼は、役所の休みを利用して、二、三日前から泳ぎにゆくと称して、吉田をこのT海岸へ連れだしたのである。
最初の彼の目的は吉田に恥を忘れて事実をつきとめることだった。けれど、宿屋の一室で一寸その話にふれかかった時、吉田は
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