ば、特殊の場合でない限り、丁度あなたの時同様、検事は被疑者の供述以外に手がかりがないのですから、めったに起訴されないことになるのです。而も最悪の場合を考えて見ましょうか。誰か現場を見ていたとする。この場合故意に相手を殺したと思う人があるでしょうか。誰しも狼狽の極と思うでしょう。ことに殺人の動機が外に表われていない時においては、何人《なんびと》か之を人殺しと云い得るでしょう。即ち最悪の場合でも殺人事件にはなりませぬ。十人の証人が居て悉《ことごと》く子爵に不利益な証言をした所で事件は業務上過失致死罪の罰、即ち三年以下の禁錮又は千円以下の罰金ですむ筈です。伯爵、あなたは子爵某が過って人を轢殺して三年の体刑になると思いますか、今までの判例を見れは直ぐ判ることです。之は半年の間狙いに狙った刹那がそういう最悪の瞬間と仮定してもの話ですよ。而もこの不幸のプロバビリティーは子爵の計算に従えば頗る小さいものだったに違いありません。即ち子爵は、犯行の日、日比谷門から霞門に向いてドライヴする。相手がいつもの通り右側の舗道(即ち子爵から云えば左)を歩いて来るのが見えた。神経衰弱にかかった紳士があそこを西から東へ行く時は右の舗道を歩くのが最も安定だと考えるにきまっています。何故ならばあそこの舗道は甚だ狭く左側を通れば後から来る多くの自動車におびやかされるからです。子爵は素早くあたりを見まわす、といってもまず右側だけです。前面はカーヴしているからこっちだけ見ていればよい。左側は鉄柵で仕切られた植込みだからめったにこっちから人が来る筈はない。そのうち子爵と某紳士の距離はますます迫る。この辺でよしという所で、子爵はまッしぐらに相手の身体めがけて――即ち今までの進路から一寸左にハンドルを切って突進する。今まで通りに歩いていれば安心だと思っていた相手は驚いて逃げようとするひまがない。無論右に避けたいが鉄柵ですぐにはとび越えられぬ。仕方がないから左即ち車道に出ようとする。とたんに車体が相手を引き倒すという次第なのです。この場合相手が車道へ少しでもとび出して来ることが必要なのです。何故なら歩道へのりかけてそこで引き倒しては明かに過失ですから。自殺した場所さえ車道なら、はじめ少し車がカーヴして来てもその跡なんか、キぐ踏んでも消せますからね。現にあなたの場合などは全然車のあとは踏み消されて居たそうです。無論あ
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