思えないこともない。僕の処に出した手紙は無論、自分で出したんだろうね」
「それははつきりきいて来た。無論自分で出したと云つている。それを書くのも全く秘密にしたと云うのだ。なんでも、上書を書いている所へ妹のさだ子がはいつて来たが、それにすら見せぬつもりで吸取紙で上からかくしたと云つているよ」
「妹が来た? へえ、それにも見せなかつたんだね。そうか。して見るとどうして知れたかな」
彼はこう云つて煙を吐き出しながらじつと考えこんだ。
「小川、君はおぼえているかい。さつき僕がさだ子という人もお母さんに云わなかつたか、ときいた時、彼女の表情がちよつとかわつた事を。ともかくこの秋川という家には何かふしぎな秘密があるね……さて、今日はもうお客もないらしいから、これで引き上げようじやないか」
私はまだたくさん彼にききたい事があつたのだが、彼がそういうのでやむなく立ち上つた。
銀座のある角で、私は彼と袂を別つたのであつた。
6
その夜、私はどうしても落ち着けなかつた。
床につくと、いつもは十分もたたぬうちに眠つてしまう私も、この夜はなかなかねつかれなかつた。
無論私はその原因を、秋川ひろ子という美しい女性の印象に帰していた。事実、彼女の姿が、どうしても私の目から去らないのだ。同時に、私はいろいろな想像をしてみた。
もしこのまま何事も起らなかつたらどうだろう。それはひろ子にとつては幸福かも知れない。秋川一家にとつても勿論幸いであろう。けれど、私は、たつた一度彼女に会つたきり、このまま永久に相会《「相会」に「あわ」》ぬことになる。それは私としてはまことに淋しいのだ。
彼女がまた私にあうようになる為には、何事かが秋川家に起らなければならぬ。
こう考えてきたとき、私は自分の利己心をかえりみて、我が身に実は恥じたのである。
そうだ、何事か起つて、それが大した事件ではなく、ちよつとした事であつてくれればいい、ひろ子もその父も無事な程度に何か起つてくれればいい。そうすれば、ひろ子にとつても私にとつても都合がいいんだ。
こんなくだらぬ事を考え、同時にまた、事の推移をいろいろに想像した。
秋川駿三が何者かにおびやかされている事は間違いない。しかし、その相手は何者だろう。何故、彼はすぐに警察に訴えないのだろう。去年から今まで脅かされつづけて、いつたい彼は何をしていたのだろう。
今まで知つている範囲では、秋川駿三は、一代で巨富を作つた人間である。こうした経歴をもつている人の中には、随分ひとに恨まれるやうな事をする者があるから、彼が誰かに恨まれているであろう事は察するに難くはない。
ではそれは、金銭上の恨みか、恋愛関係についての怨みであろうか。――私の考えはいろいろな方面に動いていつた。
それにしても、さつき私が此の目ではつきりと見た三角形の印のついた手紙は何者によつてかかれたか。いや、それどころではない、私がこの耳ではつきり聞いたあの女らしい声の悪魔の嘲笑は何を意味するのか。悪魔は正しく藤枝真太郎に向つて挑戦しているではないか。彼はつづいて何をしようとするのだろう。更に、藤枝がひろ子と話をしている間にさだ子の話にふれた時のひろ子のあの表情は? これはなんと解釈したらいいのか。
私の頭の中には、とりとめのないいろいろの渦巻が交る交る現れたが、結局一つとしてはつきりしたことが判らなかつた。
珍しく夜の十二時、一時の時計の音をきいたけれども、二時の打つのをおぼえなかつたから、いつのまにか眠りに陷つたとみえる。
私が目をさましたのは翌日の朝、九時すぎだつた。いや正しく云えば、目をさましたのではない。目をさまさせられたのだ。
「おい小川、起きないかい。おい……」
ぼんやりと目をあけて見ると、意外にも私のねどこの側に藤枝がすわつているではないか。
「お目ざめかね。ちよつといそぎの用がおこつたので、女中さんに云つて、かまわずねどこに押し入つて来たんだよ」
「ああ君か。……どうしたんだい」
「オイ、とうとう秋川家に大事件がおこつたよ」
わたしは、いきなり夜具をはねのけてとこの上に坐つた。
「何? どうしたんだ」
「秋川ひろ子のおつかさん、秋川徳子が昨夜毒殺されたんだよ」
7
「毒殺? あのひろ子のおつかさんが?」
「うん、はつきり毒殺とは云い切れないかも知れないが、とにかく、秋川徳子が毒薬をのんでその結果、けさ死んだことはたしかなんだ。しかし自殺とみるべき所がないので、当局は殺人事件とみている」
「で、ほかの者は?」
「主人もその外の人もどうもないそうだ」
「君にどうしてそれが判つたんだい」
私は、もう起き上つて着物をきかえながらきいた。
「けさ、早く、ひろ子嬢から電話があつてね、母が昨夜から大変に苦しみはじ
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