、それがまもなく消えると、もういつの間にか元気を取りなおしたと見えて、いつもの頼もしい藤枝になつていた。
「木沢さん、死体を余りいじらぬように、傷を調べて下さい」
木沢氏は、すでに藤枝にいわれるより早く、その方に取りかかつていたらしい。
「けがはたつた一つです。後頭部に大分烈しい傷があります。ほれ、ちよつと頭を上げるとすぐ判ります」
木沢氏はこう云いながら、死体の頭をちよつと上に上げた。
「成程、駿三氏は、立つているところを後からがンとやられたんですがね。……しかし、この頭のそばに椅子が仆れていますね。あるいは仰向けに仆れる時に、この椅子の背で打つたのかも知れませんな」
「そうです。藤枝さん、私はむしろその考えを取りたいです。解剖の行われぬ前にこう断定するのは軽卒ですが私には、この後頭部の傷の為に、こう早く死ぬということはちよつと考えられませんよ」
木沢氏が内心確信あるもののように云つた。
藤枝は、しやがんで駿三の両手をしきりに見ていたが、それから懐中にちよつと手を入れた。
「ねえ小川、駿三氏は重要書類をとりに行くと行つてこの部屋に来たはずだつたね」
さすがは藤枝だ。私があわて切つてまつたく忘れていたことをすぐ考えはじめていたらしい。
「そうだ。そうだつたよ」
「もし駿三氏がわれわれに嘘を言つたのでないとしたら――しかしてこの場合嘘を言つたとは考えられないが、そうすればその書類はこの部屋にかくしてあつた[#「かくしてあつた」に傍点]か又はまだかくされてある[#「かくされてある」に傍点]筈なんだ」
「うん、そういうわけになる」
「僕は死体を今調べて見たが、死体にはそんなものは一つもない。して見ると書類は、駿三氏がまだ出さないかも知れない。もしこの室にないとすれば犯人の手にもう入つているかも知れない。……ところで、そのかくしてある場所というのは、一体どこだろう」
12[#「12」は縦中横]
藤枝はこの時、全身の精力を一時に脳に集中したように見えた。彼は黙つて室内を見廻した。この室の中で一番目につくものは何と云つても立派なピヤノである。彼はしばらくピヤノの方を見ていたが、やがて目をそらすと、はめこみの鏡をじつとのぞきこんだ。
しばらくすると、彼は、駿三が仆れている両足の間に自分の足をもつて行つて、鏡の方を向いて立つたが、藤枝が立つと、彼の頭が、ちようど鏡の上のふちの所に来る。彼がかなりせいの高い男であることはこの物語の冒頭に記したはずである。彼は、二、三分そうやつて鏡と向きあいに立つていたが、やがて左右の両縁《りようふち》をしきりに指さきでいじつていたが不意に、
「しめた。これだ」
と小児《こども》がなくしたおもちや[#「おもちや」に傍点]を発見した時のような喜ばしそうな声を出した。
見ると、驚くべし、向つて右の鏡の縁《ふち》がどういう仕かけか、一寸ほどあいて、藤枝は今や左の手をかけてあけようとしているではないか。
私と木沢氏は驚いて思わずはしりよつた。藤枝の左手《ゆんで》がさつと左に開くと、はめこみになつた鏡はそのまま左の縁を中心にしてあたかも箱の蓋のように前にとび出して来た。
「うん、そん中だな。書類があるのは!」
私が叫んだのと、
「おや、何もないぞ」
と藤枝が叫んだのと殆ど同時だつた。
藤枝は、鏡のうしろをのぞきながら、右手を入れてかき廻していたが、やがてバタンとまた鏡をもとにかえした。
「フン、何もない。しかし何か書類らしいものが入れてあつたことは確かだ。して見ると……」
彼は次の言葉を発せず、そのまま考えこんでしまつた。
私はその間に床の上などを注意深く調べて見たが別段泥足のあとのようなものも見えぬし、格闘の跡とてもない。
ふと気がついたので一番ピヤノに近い窓の所に行つて庭の方をながめた。庭の方にも別に変つたものは見えなかつたが、ちようど窓の下に偶然目をやると私はそこに明らかに最近つけられたらしい靴の跡を見出した。
「おい藤枝、ちよつとちよつと。この窓のところを見たまえ」
彼はいそいで立ち寄つたが、
「うん、たしかに曲者はここから来たんだ。ここで靴をぬいで、駿三を殺し、再び窓からとび出して靴のまま逃走したんだ。それにしても咄嗟の間に、用心深いことをやりやがつたよ」
私は今度の事件で藤枝がいつにもなくあわてた態度を表わしたことを記したが、どうもおちついてからも彼の様子が全く変であることに気が付いた。
彼は私をそばによんで小声で云つた。
「小川、われわれは今までで一番の難問題にぶつかつたんだ。どうも判らん、どうも判らん」
「藤枝、とうとう犯人は今日やつつけたね。約束通り」
「え?」
彼はこの時非常な驚きの様子をまた表わした。
「うん、そうそう、今日は五月一日だつたな」
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