の美醜に動かされてはならない。それでは正しい裁きが出来ぬものだ」と平生からお役向のお家来達にくれぐれもお諭《さと》しになって居られるのでございます。
此の日、伊豆守様が主に天一坊とお物語りになったそうでございます。そうして天一坊の側からはお落胤という証拠と致して公方様お墨附、並びにお短刀を示し、その時居られました方々にも皆々様之を拝見なされ、正物にまぎれもなき物と定ったそうでございます。御奉行様も其の場に居られて、そのお様子をすっかりお見届け遊ばされたわけなのでございます。
お役目柄、御奉行様は半※[#「※」は「日+向」、第3水準1−85−25、212−13]《はんとき》でも対座なさりますれば必ず相手の人物をお見抜き遊ばす方でございます。それに致しましても天一坊が公方様のお胤《たね》であるかどうかと申す事まではお判りにはなりますまい。仮令、天一坊という男の性質がよろしくないとお見抜き遊ばしたにもせよ、お胤でないとは申せないわけでございます。まして持参のお証拠の品々は紛れもなく正しい物と定まって居りますのでございます。
それだのに御奉行様のお決意は何を表わして居るのでございましょう。申す迄もなく私などには初めは頓《とん》と合点が参りませんでございました。
公方様のお落胤が江戸にお出になった、と云う事で江戸中は大騒ぎでございます。公方様に於かせられましてもおぼえある事と見えまして近くお対面相い成るやにも承るようになって参りました。
其の間、御奉行様は毎日のようにお登城を遊ばし、その度に暗い暗い顔色をしてお戻りになります。高貴のお方々も度々御奉行様にお会いになります御様子、その中、私にも何となく御奉行様の御決心の程もお察しがつかぬ事もなくなって参ったのでございます。
浅慮の私からはっきりと申しますれば、御奉行様は始めて、天一坊にお対面になりましてから以来、何故か天一坊が公方様のお落胤であるという事実を信じまい信じまいとなさって居られたのでございます。奉行という重いお役目から、大事には大事をとって、と仰せられながら、お家来の衆を遙々《はるばる》紀州へおつかわしになりました時など、事の真相を糺《ただ》すというよりも、あれは嘘だと申す証拠を掴みたがって居られるようにさえ感ぜられましたのでございました。どうかして天一坊を偽者だという証拠を得たい、どうかしてあれが御落胤でないという事を確信したい、斯ういうのが御奉行様の御心持であったに相違ございませぬ。
何故と申すに、紀州に遣《つか》わされました方々が、天一坊が偽者であるという証拠を得られずに却って真《ほん》ものであるという証拠を伝えて参りました時の御奉行様の御失望、御苦悩を私ははっきりと思い出す事が出来るからでございます。今までのお裁きの場合には、黒白何れか一方の証拠をお掴みになりますと御奉行様は世にも幸福な御様子をなさるのでございました。ところが今度に限ってそうでないのでございます。之は如何《どう》いうわけなのでございましょう。
信じまい、信じまい、という時は過ぎ去りました。最早信じまいという事実を信じなければならぬ時が参ったのでございます。
私が初めに、真に御奉行様が御役目の大切な所をお掴みになろうとお苦しみ遊ばしたと申し上げました時は、実に此の時なのでございました。
では何故ああ迄、天一坊を偽者とお信じになりたかったのでございましょうか。
之は色々に考えられますのでございますが、私が今思いますのは全く「天下の御為」という事からではなかったのではございませんでしょうか。
つまり、御奉行様は天一坊の性質をお危ぶみになったのでございます。私には詳しい事は判り難《か》ねますけれども、若し天一坊を公方様の御胤と認める時は、必ず天一坊は相当の高い位につかれるに相違ございませんのです。只今の世は太平とは申せ、位に似つかわしくない人間を或る力のある位置におく事が、どんなに恐ろしいものであるかという事を御奉行様は御考えになったのでございます。今まで全く微力だった人間に、不意に高い位置と大きな権力とを与える事は仮令それが当然の筋合であろうとも、その人間の性質によってはどんなに危険なものであるかをお考え遊ばしたのではございませんでしょうか。俗に氏《うじ》より育ちと申すことがございます、仮令公方様の御胤にもせよ紀州に生れて九州に流れ野に伏し山に育って来た天一坊が、公方様にも次ぐ位に似つかわしい筈はございませぬ。さすれば一人を高い位置におく事は天下に禍いを生む事になるのではございますまいか。
と申して天下の名奉行とも云われる御奉行様が、ほんとうの事実を曲げてもよろしいのでございましょうか。成程一人の生命を奪って天下を救う事は正しいように考えられます。けれども今の御治世に御法に依らないで其の一人の生命を奪う事が出来るものでございましょうか。而も事実はその一人は生命を奪われるどころか、栄貴を望む事の出来る立場に居るものでございます。御奉行様の御苦心は此処にあったのではなかったかと、私は恐れ乍ら御察し致して居るものなのでございます。
六
事実が判りました時はあれ程御失望なさったらしい御奉行様も、其の翌日から再び厳粛な面持でお勤めにお出かけになりました。其の頃、お役目向の方々の外に、伊豆守様はじめ高位の方々も頻りと御奉行様と往来《ゆきき》をなされて居られましたのでございます。
或る日、夜更けて漸く御帰り遊ばしましたが、其の日は昼からずっとあの学者として名高い荻生様の御邸に参られ永く永くお物語り遊ばしたと申す事でございます。其の夜から御奉行様のお居間には和漢の御書《ごほん》がたくさんに開かれましたが、皆「正」とか「義」とか申すむずかしい事に就いての御本だったように存ぜられます。
愈々最後に、明日は御自身で天一坊をお調べ遊ばし、それによって御奉行様が何れともお定めにならなければならぬと定りました其の前夜、御奉行様のお邸には荻生様、伊藤様の両先生が見えておそく迄お物語り遊ばしましたのでございます。
天一坊お調べの節の有様はあなた様方もよく御存じの事と存じますが、御奉行様はいつもに似ず御低声で、お訊ねも主に外形にばかり注がれて居たと申す事でございます。天一坊の乗輿《こし》に就いてのお訊ね、御紋についてのお調べ、之皆外形の事柄でございます。肝心の御落胤か否かと申すことに就きましては、どうしてあのお墨附と御短刀だけで天一坊が其の本人だと云う事が出来るかというような事を仰せられただけだと申すことでございます。御言葉が激して来て天一坊にお迫りになった時、あの美しい僧形の若人は世にも悲しげな顔をして斯う申したという事でございます。
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「世にまことの親をほんとに知る事の出来る人間が居りましょうか。誰しも生れた時の記憶が有るものではありません。親なる者が、自分がお前の親だというのをただ信じて居るに過ぎないのです。私のように、生れた時から私がお前の父だ、私がお前の母だと云ってくれる者がなかった人間は、不幸にも、ただただ周囲の者の云う事を信ずるより外《ほか》、道がないのです。私が物心ついても誰もお前の父だ、お前の母だと云って出て来てくれる者はありませんでした。私が初めて父母の名と、其の行方を知ったのは、私を育ててくれた祖母が亡くなった時です。母はもはや世に居りませんでした。私を生んでくれた時に死んだのです。父の名を聞いた時、私は心から驚きました。と同時に、どうかして一度は会いたいと心から願いました。あなたは親と云ってくれる者を一人ももたずに育って来た人間の淋しさを御存じですか。あなたは何と考えていらっしゃるかも知れませんが、私はただ真実《ほんとう》の父に会いたいばかりなのです。外に何も望んで居るわけではありませぬ。それだのに不幸に生み付けられた私は何という更に大きな不幸に出会わなければならないのでしょう。私は寧ろ名もなき人の子として生れたかったのです。さすれば父は喜んで私に会ってくれたでしょう。斯様に奉行を間に入れて罪人のように我が生みの子を取り扱わないでも済んだ筈です。思えば私の父も不幸な人間です。その生みの子に直ぐ会うわけにも行かないのですから。けれど、若し父にほんとうにおぼえがあれば必ず会いたがって居るに違いありませぬ」
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此の愚かな、けれど真直な天一坊の答えはあの男の為には運命を一時に決してしまったのでございました。あの男は不幸に生れ付きながら更に一番不幸な最後を、此の言葉が生み出す事を知らぬ程若かったのでございます。あの男はただ父親に会いたかったと申して居ります。それはそうに間違いございますまい。けれど御奉行様に致しますれば、それはただそれだけの意味にはならないのでございます。御奉行様は世の為に此の哀れな人の子を其の親に会わしてやることはお出来にならなかったのでございます。
お調べの果は、御奉行様の為にも、又天一坊の為にも余りに悲惨すぎて詳しく申し上げる言葉もございませぬ。御奉行様の御取り計らいで、天一坊は全く偽者なる事に定りましたのでございます。
「天下を欺す大かたりめ」之が御奉行様が最後に天一坊に仰言ったお言葉でございますが、いつもに似ず御声に慄えを帯びておいでになったそうでございます。
お邸にお帰り遊ばし、落葉散り敷く秋のお庭にお下り立ち遊ばした時の、御奉行様のお顔色は全く死人の色のようでございました。
お処刑《しおき》の済んだ事をお聞きになりました時、ただ一言「そうか」と仰せられまして淋しく御家来の顔をお眺めになりましたが、お伝えに上った御家来は其の時御奉行様にじっと見つめられて、総身に水を浴びせられたように、ぞっと致したと申す事でございます。
其の時以来、再びあの暗い陰気な御方におなり遊ばしたのでございますが、何故か私には、最早昔の晴やかな愉快なお顔色は、永く永く御奉行様から去ってしまったように考えられてなりません。
私は御奉行様の此のお裁きが、正しいか正しくないか、全く存じませぬ。いいえ、ほんとうを申せば、何故天一坊がお処刑にならなければならなかったかという事さえほんとうには解らないのでございます。私はただ私が考えましただけの事を申し上げたに過ぎないのでございます。御奉行様のあの御苦悩を思い、天一坊の余りにも痛ましい運命を考えますにつけ、拙き筆を運びまして、思う事ありし事、あとさきの順序もなく書き綴りましたのでございます。
[#地付きで](〈改造〉昭和四年十月号発表)
底本:「日本探偵小説全集5 浜尾四郎集」創元推理文庫、東京創元社
1985(昭和60)年3月29日初版
1997(平成9)年7月11日5刷
入力:大野晋
校正:はやしだかずこ
2001年2月26日公開
2001年2月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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