黄昏の告白
浜尾四郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)夕陽《ゆうひ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)窓|硝子《ガラス》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符三つ、98−上−22]
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 沈み行く夕陽《ゆうひ》の最後の光が、窓|硝子《ガラス》を通して室内を覗《のぞ》き込んでいる。部屋の中には重苦しい静寂が、不気味な薬の香りと妙な調和をなして、悩ましき夜の近づくのを待っている。
 陽春のある黄昏《たそがれ》である。しかし、万物|甦生《そせい》に乱舞するこの世の春も、ただこの部屋をだけは訪れるのを忘れたかのように見える。
 寝台《ベッド》の上には、三十を越してまだいくらにもならないと思われる男が、死んだように横たわっている。分けるには長すぎる髪の毛が、手入れをせぬと見えて、蓬々《ぼうぼう》と乱れて顔にかかっているのが、死人のような顔の色を更に痛ましく見せている。細い高い鼻と格好《かっこう》のよい口元は、決して醜い感じを与えないのみか、むしろ美しくあるべきなのだが、生気のまったく見えぬその容貌には、なんとなく不気味な感じさえ現われているのである。
 傍《そば》には、やはり三十を越えたばかりと見える洋装の男が、石像のごとく佇立《ちょりつ》して、憐れむように寝台《ベッド》の男を見つめている。彼もまた極めて立派な容貌の所有者である。しかし、この厳粛な、否むしろ不気味な静寂は、その容貌に一種の凄《すご》さを与えている。
 横たわれるは患者である。傍に立てるは医師である。この病院の副院長である。
 突然患者は目を開いた。
 立てる男と視線がはっきりと衝突した。立てる医師はふと目をそらす。
 患者が云う。
「山本、君一人か。」
 医師にはこの質問の意味がはっきり判らなかった。
「え……?」
「この部屋には、今、君と僕と二人切りしかいないのか。」
「ああ、看護婦は階下《した》へやった。用があったから。僕一人だよ。」
「そうか。」
 患者はしばらく考えているようであったがふたたび目をとじた。医学士山本正雄は患者が続いて何か云うことを予期していた。しかし患者はふたたび死んだように沈黙した。
 今度は医師が声をかけた。
「君、苦しくはないかね。」
「ああ……いや別段……」
 ふたたび重苦しい沈黙が襲う。
 日の光はしだいに薄れて、夜が近づく。
 陰惨な静寂に、医学士山本正雄は堪えられぬもののように頭をかきむしった。
 患者は大川竜太郎という有名な戯曲者である。彼はその二十七の年に処女作を発表し、当時の文壇のある大家にその才能を認められてから、がぜん有名になった。つづいて発表された第二、第三の諸作によって、彼は完全に文壇の寵児《ちょうじ》となり三十歳に達せざるに、社会はもはや彼が第一流の芸術家であることを認めないわけにはいかなかったのである。
 その大川竜太郎が、三十三の今日、劇薬を呑んで自殺を企てたのである。幸か不幸か、彼はすぐ死ぬということに失敗した。彼が苦悶《くもん》のままその家から程遠からぬこの病院にかつぎ込まれてから、今日でちょうど五日目である。
 副院長山本正雄は大川の友人であった。彼が必死の努力によって、大川は救われたかと思われた。しかし、それも一時のことであった。山本は今、大川の生命はただ時間の問題であることはよく知っている。
 なぜに大川は自殺を企てたか。
 大川が事実自殺を計ってこれを決行したにもかかわらず、なんら遺書と見らるべきものが遺《のこ》されなかったため、諸新聞は大川の知己である文壇の諸名家の推測を、列挙して掲載したことは云うまでもない。
 文士であるにもかかわらず、一片の遺書も残さぬというところから、恐らくその自殺は発作的のものではないかと憶測したものもあった。しかし大川が数日前から劇薬を手に入れていた事実、および彼がそれとなく薬物に関して他人に質問をした事実によって、その考えがまったく空想に過ぎぬことが明かとなった。したがって文壇の諸家はおのおの自己の信ずる考えを述べたてたのであった。しかし、少くも二つの原因らしきもののあったことは、誰しも認めないわけにはいかなかった。
 その一つは、大川竜太郎一個人の芸術家としての問題であり、他はまったくこれと異るが同時に非常に有力らしく見えるところの、約半年ほど前に彼の家において行われた有名な悲劇である。
 三十歳に達せずして一代の盛名をはせた戯曲家大川竜太郎は、しかし、三十歳に達せずしてその芸術の絶頂に達したのかと思われた。
 彼が三十の時、盛名はなおいぜんとして衰えなかったにもかかわらず、ある人々はすでにその作品の中に彼の疲労を発見した。彼が三十一の年その作の中には芸術家としての行き詰りが
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