た。そしてその後幾度か石川には逢つてもついその話はせずにしまつた。
 それから余程経つた後であつた。小奴にそのうち石川と一緒に釧路へ君を尋ねるといふ葉書を出したことがあつたが、小奴からは何の返事もなく、石川も他界してしまつたので、時折歌集を繙く度に小奴の名の出てくるのをみると、釧路の夕を思ひ出しては芸者小奴は今、どうしてゐるかといふことを考へるのであつた。
     ○
 その後大正十年の春、私が奈良市へ講演に行つて四季亭へ泊つた時、どうした話のはずみだつたか四季亭の女中が、あなたを知つてゐる坂本さんといふ女の方が京都にをりますよと私にいふのである。その女中は何でも京都の生れであつたやうに思はれた。私は坂本といふ婦人はいくら考へても思ひ出せなかつたので女中にだんだん聞いてみると、その坂本といふ婦人こそ、釧路の芸者小奴であつた。小奴の本姓は坂本といふのであつた。
 その女中の話しによると、小奴の坂本はその当時京都のある呉服屋の支配人の妻君になつて京都に住んでゐたのであつた。釧路と京都とはどんな事情で小奴が今京都にゐるかは知らないが、不思議な感がしてならなかつた。
 大正十年といへば今から七八年前のことであるから、今も小奴は京都にゐるかも知れない。
 そのころ無名の詩人であつた石川、今の石川の名声と思ひ合はせて考へた時、小奴はたしかに感慨深いものがあるであらう。
 私も機会があつたら、もう一度小奴に会つて石川の話もしてみたいやうな気もするが単に京都とばかりでは、京都の何処《どこ》にゐるのやら知るよしもなくそのままになつてしまつた。
     ○
 石川は人も知る如く、その一生は貧苦と戦つて来て、ちよつとの落付いた心もなく一生を終つてしまつたが、私の考へでは釧路時代が石川の一生を通じて一番呑気であつたやうに思はれる。それといふのも相手の小奴が石川の詩才に敬慕して出来るだけの真情を尽してくれたからである。かうした石川の半面を私が忌憚《きたん》なく発表することは、石川の人と作品を傷つける如く思ふ人があるかも知れないが私は決してさうとは思はない。
 妻子がありながら、しかも相愛の妻がありながら、しかもその妻子までも忘れて、流れ[#「流れ」に傍点]の女と恋をすることの出来たゆとり[#「ゆとり」に傍点]のある心こそ詩人の心であつて、石川の作品が常に単純でしかも熱情ゆたかなのも、皆恋する事の出来る焔が絶えず心の底に燃えてゐたから、それがその作品に現れてきてゐるので、もし石川にかうした心の焔がなかつたならば、その作品は死灰《しかい》の如くなつて、今日世人から尊重されるやうな作品は生れて来なかつたかも知れない。
 いはば石川の釧路時代は、石川の一生中一番興味ある時代で、そこに限りなき潤ひを私は石川の上に感ずるのである。
 このことを石川が地下で聞いたならば苦笑をもらすか、微笑をもらすか、石川のことであるから多分苦笑をもらし乍ら煙草を輪に吹いてだまつてゐるだらうとそれが私の目に見ゆるやうに感じられてくる。



底本:「定本 野口雨情 第六巻」未來社
   1986(昭和61)年9月25日第1版第1刷発行
初出:「週間朝日」
   1929(昭和4)年12月8日号
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2003年11月24日作成
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