会場は○万楼の階上の大広間で支庁長始め、十数名の官民有志が出席して、釧路一流の芸妓《げいしや》も十数名酒間を斡旋した。その時私がふと思ひだしたのは、嘗て石川から聞いてゐた芸者小奴のことであつた。私はこの席に小奴がゐるかどうかを女中に尋ねてみると、女中のいふには
『支庁長さんの前にゐるのが小奴さんです。』
見ると小奴は今支庁長の前で、徳利を上げて酌をしてゐるところである。齢《とし》は二十二、三位、丸顔で色の浅黒い、あまり背の高くない、どつちかといへば豊艶な男好きのする女であつた。その中に小奴は順々に酌をしながら私の前に来た。そこで私は
『小奴とは君かい。』
と聞いてみた。すると
『ええ、わたしですが何故ですか。』
と不思議さうに私の顔をみる、私は
『君は石川啄木君を知つてゐるだらう。』
といふと小奴は
『石川さん?』と小声に云つて、ぽつと頻を染めながら伏目勝ちになつて
『どうしてそんなことをおききなさるのですか。』
『いいや、君のことは石川君からよく聞いてゐたものだから……』
『あら、あなたは東京のお方でせう、それにどうして石川さんを知つてらつしやるのですか。』
『私は、今は東京にゐるが一、二年前までは小樽や札幌にゐたからそんなことはよく知つてゐるよ。』
実は私は札幌で石川を始めて知つて、それから小樽の小樽日報へ一緒に入社したのであつた。小奴は
『あなたのお名前は何とおつしやいますか。』
と、不安さうな瞳をみはつて尋ねるのであつた。
『私は野口といつて石川君とは札幌からの懇意だもの。』
『まあ、あなたが野口さんでしたか、それでは石川さんから始終あなたのお噂を聞いてゐました。それにしても今石川さんは何処《どこ》にゐらつしやるのでせうか。』
小奴は石川が釧路を去つてからの後は石川のくはしい消息は全く知らないらしかつた。
『いまは東京にゐるが、君はそれを知らないのか。』
『ええ、東京へ行つてゐるといふことはうすうす聞いてゐましたが、東京の何処にゐらつしやるのかその後音信がないので存じません。』といふ。
さうしてゐる中に酒席は酣になつて、一同のかくし芸が始まる。小山氏の手品、坂本氏の詩吟等と主客共愉快になつて、大はしやぎにはしやいだ。私は小奴と石川のことを話し合つてゐたために、同行の某君は、けしからんけしからんといひながら傍へよつて来て、たうとう私と小奴との話をさへぎ
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
野口 雨情 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング