紙に、
『君の希望してゐる新聞社が札幌にあるらしい、大した新聞ではないか知れぬが、梅沢君を訪ねて行くやうに』
と、あつた。梅沢君と言ふのは、同じ早稲田の先輩で西行法師の研究家として知られてゐた梅沢|和軒《わけん》氏のことだ、梅沢氏の父君は根室裁判所の判検事を永らく勤めてゐたから、和軒氏も北海道で育つて北海道の事情は何んでも知つてゐた。一見学者風の人格者である。私は坪内先生の手紙を見ると同時に小石川鼠坂上の和軒氏方を訪ねた。児玉花外、西山|筑浜《ちくひん》氏等がその以前に鼠坂下に住んでゐて、吉野臥城、前田林外氏なぞと始終訪ねて行つたことがあるから、この辺の地理はよく知つてゐた。幸い和軒氏は居つて、
『札幌の大した新聞ではないが、社長の伊東|山華《さんくわ》君が志士的な愉快な人だ、生れは福島県の若松藩だが帝大の専科を出た文章家だ、九段上の旅館にゐるから行つて見よう』と和軒氏も一緒に行つてくれた。
 九段上の旅館(名は忘れたが招魂社の傍)で社長の山華氏に会つた。成る程志士的気慨の溢れてゐるやうな人で、言語も態度も洵《まこと》に純朴だが一旦国を論じ世を議するとなればその熱烈さには敬服した。一見旧知の如く『明日の晩東京を立つて札幌へ一緒に行くから上野駅で落ち合はう』と直ぐ約束が出来て入社することになつた。私は直ぐに坪内先生のお宅へ上つて其旨を話すと先生は、
『北海道にはアイヌが居るからアイヌを主材としたものを書く方が良い』と御注意をして下さつた。
『これは僅だが、汽車中の弁当料に』と紙に包んで餞別を呉れたが『また東京へ来たらお世話さんになるですから』と無理に辞退して帰つた。東京には知人も友人も沢山居るが、余り突然なので人見東明氏と関|石鐘《せきしやう》氏と二人だけに札幌行きを話して翌晩の十時に上野駅を立つて行つた。私はその時二十三歳の青年であつた。
 汽車の中は社長の山華氏と二人切りで、翌日の午後に青森に着き、連絡船で函館に渡り再び汽車で札幌へ着いたのである。

   札幌へ来た頃の啄木

 私の札幌での居所は山華氏の紹介によつて大通りの花屋と言ふ下宿屋であつた。今は電車も出来てゐるが其頃は電車もない、大通りと言ふのは開拓当時火防の為めに作られた防火線であつて道路の中央は広い草原で東西に長く続いてゐる、この草原を中に挟んで両側に傍側《ばうそく》道路がある、この傍側道路に面した
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